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戸川幸夫氏の体験談によれば、エスキモーのアザラシ狩りは、氷山のかげに隠れているアザラシの子を見つけ、足で蹴とばすのだそうである。アザラシの子は保護色をしていて白いので、親は一応安心して海に出ている。それで哭き声を聞いてかけつけ、両親と子三頭が殺されることになる。 この物語に描かれたラッコの習性はさらに痛ましい。彼らは、アザラシやオットセイ、セイウチなどと違い、海上で殺されても海底に沈んでゆかない。並外れて毛皮がすばらしい上、確実にそれが回収できるとなれば、ラッコの運命はもう決ったようなものである。 "頭から首のまわりにかけて銀色に光る毛をもった"主人公銀色[*「銀色」に傍点]を含むラッコの一族は、その長い被殺戮の歴史から、けわしい二つの岩場と浜辺を結ぶ三角形の中だけで生活している。そこには群生したコンブのベッド――ケルプがあり、おちちよりおいしいアワビもあって、ラッコたちは平和に暮している。 「三角の外へでていったからって、なにがおもしろいのさ。三角の中とおなじような海が、つづいているだけじゃないか」「うまいアワビだって、ここにはとりきれないほどあるのに……、なんだって、銀色は遠くへいきたがるんだろうな」 ふしぎがる仲間たちから離れ、好奇心が強く能力も高い銀色は、かつて迷い子になったとき抱き上げてくれたエスキモーの少年ピラーラに会いにでかけてゆく。 エスキモーは海と山、二つにわかれて住んでおり、年に一度楽しく交易する。ピラーラが銀色と再会してまもなく、その交易の日がめぐってくるが、友人サネックが病気になったため、ピラーラは、父親の言に従い、一緒に村にとどまる。そして、村人の留守中、父との約束を破ってサネックをつれ、ラッコのいる岩場へ行く。大人たちは、交易に初めて加わったインディアンから猟銃を買い入れて帰ってき、サネックを通じてラッコの群れの存在を知ると、勇躍その銃の試し撃ちも兼ねて「三角形」に乗り込んでゆく。銀色ラッコとピラーラの微妙な欲求不満及び子どもらしい冒険心が、ラッコ一族を悲惨な死に追いやる因となり縁となるのである。 完全に無防備な弱い動物に対する人間の一方的な殺戮――人間の存立形態の根本にかかわるこのテーマを作品化するにあたって、作者の配慮した方法のうち、最も注目すべきは物語に登場するラッコとエスキモーの個性を、銀色とピラーラ以外、ほとんど完全に無視したことであろう。たとえばエスキモーの場合、ピラーラのほかに、その父親パニアック、母親マキアーニ、妹マキーネ、おじアグアマック、友人サネック、その父イルパック、犬のペグロ。以上七人が固有名詞を与えられて出てくるが、その顔かたちや体つきはもちろん、癖も好みも性格もほとんどわからない。ピラーラと母親、ピラーラと妹のかかわりなど全く描かれていないのは、母親や妹に個性を与えてないからである。つまり、描かれているのは、狩猟の方法、祭りのようす、交易の場面などであって、それはいくら今以上に詳述されたとしても、「生活」を描くことにはつながらず、「生態」を紹介するにとどまってしまう。これは、この作品の短所であるとともに長所でもあって、その結果、登場人物は、ラッコの立場に同化し感情移入できる者とそれができない者という二つの型に、くっきり分けて示されることになった。ピラ ーラは、もはやピラーラ個人ではなくなるわけである。 「冬の夜話」で、エスキモーと海牛のすばらしい交流――過去にあった伝説的なユートピアを語るピラーラの父パニアックは、個性を与えられないまでも、余人とは異なる一種の思想、彼なりの価値観を持っていて、一見ピラーラと同じ立場に立っているように映るが、それは違う。"あと三年たつまでそっとしとけ"というのも、"そうすればいまいる百頭が百五十頭にもなり、やわらかなあたたかい上等の毛皮を手に入れることができる"からにほかならず、他の仲間が"一人二頭ずつに制限しよう"と取り決めた打算と差はない。十五人で三十頭しとめたはずのラッコが二十八頭しかおらず、もしかすると二頭足りない分はパニアックがわざと見逃したのではないかと(読者に)一瞬思わせるが、実際の彼は、「長のラッコ」に一発ぶちこんでいるのである。 本来なら息子の心情も十分わからなければならぬはずの父親を、このようにつきはなして設定したことは、少年ピラーラの孤独をいっそう深めることになる。ピラーラは、最初八歳の誕生日に離頭銛を与えられて有頂天となり、再会したラッコを見ては「すばらしい毛皮をもったやつ」[*「やつ」に傍点]としか思わないのに、やがてラッコ全体に強いいとおしみを覚えるに至る。つまり、変化する。しかし、父親は全く変化しないし、ピラーラの後悔にも表面的な弁解と慰めとを与えるだけである。 なつかしい思いを互いに持ちながら、ことばの通じないままそれぞれに別れてゆかざるをえないピラーラと銀色の目に、ともども涙が浮かぶのは、だから、極めて自然であり、人間中心主義の底にひそむエゴイズムの残酷さ悲しさをひときわ鋭く抉り出している。 周知の通り、近代科学文明のもたらした恩沢は、人間が生命現象ないし生態系現象に直接触れる機会を甚しく損ねてしまった。主食のコメはもとより竹の子もアサリも全部むきみ[*「むきみ」に傍点]でパックされている時代である。都会を遠く離れた極地にドラマの舞台を設置することは、とりわけ子どもたちに「生」の原型を示す上で有効な手段だといえよう。しかし、事実は小説より奇なりの通り、創作よりノンフィクション・ドキュメンタリーということにもなりかねない。創作がそれらと対峙しうるには、テーマの深い把握とそのリアルな形象化はもちろんのこと、美とむなしさの本質に迫る詩的発想も必要となろう。この点、作者のつかんだテーマがどこまで掘り下げられているかについては、やや疑問が残る。特に、作者のパニアックを見る目はあいまいで、息子ピラーラとの対決を全面的に避けた甘さは、責められてもしかたがない。『銀色ラッコのなみだ』のページを右手でめくって泣きながら、左手で平然とステーキやハムを食べている子どもの姿が十分思い浮かぶのである。(皿海達哉)
日本児童文学100選(偕成社)
テキストファイル化 加藤浩司 |
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