絵本、むかしも、いまも…第19回
「『赤い鳥』の理想を伝えて―深沢省三」


           
         
         
         
         
         
         
         
    
 子どもの本のイラストレーションに「童画」という名称を付けたのが武井武雄なら、それを定着させたのは、1927年に結成された日本童画家協会でした。この結成に関わったのは、先に紹介した村山知義、武井武雄、初山滋の他、岡本帰一、清水良雄、川上四郎、深沢省三の当時活躍中の七人。画壇に名を連ね、帝展、文展に作品を出品して社会的に認められてこそ『画家』であって、子どものための本に絵を描くのは、画家としては一段も二段も低い存在と思われていた時代です。
 当時、こうした童画家たちの活躍の場は、主に「絵雑誌」や「童話童謡雑誌」。ともに雑誌という性格上、今日にその仕事が残っていることが少ないのが残念です。
 1918年に鈴木三重吉によって創刊された童話童謡雑誌『赤い鳥』は、子どもに本物の芸術を伝えることを理想に掲げ、文学的な内容とともに、絵画の面でも清水良雄を主筆に迎えてモダンで斬新な表紙絵や挿絵で、オピニオンリーダー的な存在でした。清水は、東京美術学校出で黒田清輝に嘱望された画家ですが、帝展等で活躍するとともに、童画にも生涯、誠実に関わり続けた人です。清水の都会的でグラフィカルな表紙は読者の目を強く引きつけますが、当時、東京美術学校の学生であった深沢省三も清水描くところの『赤い鳥』を見て、心を奪われたひとりです。深沢は、早速美大の上級生のつてを頼って清水を紹介してもらい、その縁で童画の仕事に入りました。出身は岩手県盛岡。中学校の上級生にはかの宮沢賢治がいて、同級生には佐伯祐三がいたといいます。
 朴とつで誠実。不要な飾り気も手練もない深沢の絵には、その人柄がにじみ出ていて好感が持てます。加えて、独自の造形感覚による思わぬモダンな側面を持っています。シンプルな輪郭線は、深沢独特のやわらかでユーモラスな味わいを示し、とりわけ、動物画に定評がありました。
 『ごんぎつね』は、ご存知の通り新美南吉の代表作ですが、南吉が『赤い鳥』に投稿し、鈴木三重吉に認められ、世に出るきっかけとなった作品で、深沢にとっても『赤い鳥』時代から縁の深い作品でもありました。
 妻の深沢紅子も画家で童画家。ともに子どもを描くときには我が子をモデルに描いていたといい、作品には幼い日の子どもたちが随所に顔を見せています。戦後は長く郷里の盛岡で暮らし、大学で美術を教える傍ら、子どものための絵画教室を続け、郷土の美術の発展に尽くしました。そこには、若くして関わった『赤い鳥』の理想、子どもに本物の芸術を伝えようとする熱く誠実な思いが脈々と流れ続けたことが感じられます。(竹迫祐子

『ごんぎつねとてぶくろ』(新美南吉童話選集 え/深沢省三 大日本図書刊)
テキストファイル化富田真珠子
子どもの本通信2000/06