五体不満足

乙武洋匡
講談社/1998

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 『本当は恐ろしいグリム童話』を寄せ付けず、今年、書籍のナンバーワンセールスは間違いがない、ひょっとしたら、聖書はともかく、歴代1位となるかも知れない『五体不満足』は、宇多田ヒカルの『First LOVE』が、この国の音楽シーンが求めていたゴールのテープを突然あっさりと切ってしまい、それまでのミュージシャン全体に何やら脱力感(ダツリキカン)を漂わせてしまっている(事実『First LOVE』以降、人気アーティスト達のCDセールスは突如軒並みそれ以前の約半分に落ち込んでしまっている)ことと似て、これまでの「障害者解放運動」の地道な努力がコツコツと目標としてきた障害者の社会での位置づけを、あっけらかんと実現している風景を描いており、それまでの「障害者解放運動」にかかわっている人々に脱力感(ダツリキカン)を誘ってしまう書物だろう(が、私の知る限り、彼らの多くは、この書物を肯定するにしろ否定するにしろ、それ以前に、シカトしてしまっている)。
 というのは、多くの障害者にとって、未だ実現していず、おそらくまだまだ難しい「解放」という事態を、生まれ落ちてからずっと、言葉を変えればそれしか知らない乙武が臆面もない幸せな表情によって語っているのが『五体不満足』だからだ。先天性四肢切断という障害のある乙武が、生まれてからの日々がここには綴られているし、それは間違いなく事実なのだろう。
 だから乙武がそういう状況で育ったことを誰も云々できないし、むしろ、そうであったことを、喜んでいいのだが、それを、障害者全般に一般化し、誤解するのは、危険である。にもかかわらず、350万部の感動の多くは、乙武を障害者の典型として享受するだろう。
 だって、こうなんだと思ってるほうが、読者というか、「健常者」には楽だもん。この本に感動出来る自分の感性に感動してればいいだけだもん。

 繰り返せば乙武個人の20年がそうであったことはいい。けれど、そのことを自ら書き発表したとき、それは個人に収まらないものとなる。こんなに売れるなんて乙武も含め、誰も予想しなかったはずだから、まず、売れた売れなかったは評価の対象から外したとしても、売れようと売れまいと、商品として出した時点で、乙武はそこに書かれた言葉を引き受けることとなる。商品(きゅうりもCDも同じ)とはそういうものだ。
 その場合彼は、『五体不満足』という、「障害」を商品名に使用している限り、その個人の体験だけで、「障害者」を語ることはできない。
 だって、乙武は「障害者」かもしれないけれど、乙武以外の「障害者」は乙武じゃないもの。
 よって、彼が行わなければならない作業は、自分以外の「障害者」への想像力を磨くことと、そのために、「障害者」に近づくことだ。
 が、残念なことに、少なくともこの『五体不満足』が書かれた時点では、彼の目は、この国の多くの障害者に届いているとは言い難い。

 例えば、介護者と障害者との関係で、
「しかし、時間が経っても、つまり『慣れていない』という言い訳が通用しなくなっても、なお、その障害者に壁を感じてしまうようであれば、それは障害者側の責任であると、ボクは思っている。そこで重要なのが、人柄・相性といった問題であるのは、健常者同士のつきあいとなんら、変わりがない」(264)という、発言は、一見正しいようでいて、奇妙なものである。
 乙武は一体いつどこで、「健常者同士のつきあい」を体験したのだろう?
 乙武という「障害者」と、彼の周りの「健常者」との付き合いは知っているだろうけれど。
 細かな指摘に見えるだろうけれど、これは重要な点だと思う。端的に言えば、彼は、自分が「障害者」だということを、この1行を書いている時、忘れている(しつこく繰り返せば、忘れられる環境で育ったことは、いい)。にもかかわらず、「それは障害者側の責任である」と、まるで自分が「障害者」を代表しているかのような気にもなっている。
 であるなら、やはり、『五体不満足』は、単に、そういう環境で育ってきた乙武の正直なエッセイだから問題ない、とは言い難い。この一文だけでも、彼はもう、「障害者解放運動」に自ら首を突っ込んでいるのだから。
 続けて乙武は書く。
「そして、しばらく接していても、その人とはつきあいづらいと感じたら、『障害者だから』と変な同情を寄せて、無理に付き合う必要はないだろう。その時、その障害者が『差別だ』などと寝言を言ったら、きちんと教えてあげてほしい。『アンタの性格が悪いんだよ』と」(265)。
 これもまた、正しいように聞こえる。
 ただし、この国の全ての障害者の置かれている状況が乙武と同じであるようになったら。
 しかし、現状はもちろん全く違う。
「その障害者が『差別だ』などと寝言を言ったら、きちんと教えてあげてほしい。『アンタの性格が悪いんだよ』と」こそ、現状では寝言だ。
 多くの障害者が施設におり、そこから必死で自立した多くの障害者は、乙武のようにファッションのブランドにこだわる(のは別にいいけど)余裕などなく、生活保護と障害者年金で細々暮らし、生き死にをかけて、介護者の確保に奔走し、だから、乙武が主張するように、「カッコイイ障害者」でありたいと思いつつも、例えば洗濯などしたこともない学生に洗濯をまかせた結果のヨレヨレのシャツを着、料理などしたこともない学生の手料理を食って栄養障害になり、風呂には1週間に一度入れるかどうかで生活しているから、現在のこの国の病の一つである「清潔願望」の尺度では、「不潔」とみなされかねない現状では。
 それに、『アンタの性格が悪いんだよ』と介護を降りられるのを恐れて、介護者に気に入られるように必死に、又は卑屈に「良い性格」を演じている障害者がいるかもしれないではないか!
 そんな想像に、乙武の目は届いていない。届いてしまう苦労を経験していない。

 乙武が、『五体不満足』からもっと遠くに視線を届かせることを、私は期待する。
 しかし、『五体不満足』が、多くの健常者のバイブルとなった事実は否定できない。
 それをどうするのか?
 案外、あっさり、忘れてしまうのかもしれないけどね。(ひこ・田中
ティーンズポスト99,05