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最初にこの作品を読んだ時に受けた印象は、紛れもなく「新しさ」ということだった。この本の発行は'90年12月、当時僕は共同通信で毎月書評を書いていて、早速'91年の2月掲載分でこの作品をメインにとりあげている。ここ数年の読書体験でいえば、新しさという印象の点では、この作品と石井睦美の『五月のはじめ、日曜日の朝』('89年)が双璧である。さて、その新しさということの(無論とりあえずは、僕にとってのということだが)中身をうまく言い当てるのは難しいが、例えば「貧乏物語」とは無縁の児童文学がようやく現れたか、という感じだったか。作中の登場人物が、自身の抱える「豊かさ」と殊更な自己意識なく付き合えるというか、そういうことのできる世代の書き手がようやく現れた、という印象であった。 舞台は湘南、主人公の中学二年の少年が住んでいるのは鎌倉の新興住宅地だが、彼は通いつめたバッティングセンターから消えたロボットピッチャーを求めて、藤沢や逗子や茅ヶ崎を探し回るのだから、まさに舞台は湘南という言い方がふさわしい。彼は一年前に山の事故で親友を亡くしたのだが、二人は小学生時代野球チームのエースと四番打者だった。ある日たまたま入ったバッティングセンターの上級向けのロボットピッチャーが、なぜか主人公の目には一年前に死んだ親友そっくりに思え、以来彼はそのバッティングセンターに通い始める。そして、湘南に始まる失われたロボットピッチャーを求める旅はなんと上海に行くことで結末を迎えるのだ。僕はこの頃村上春樹を熱心に読んでいたから、当然『羊をめぐる冒険』などがここに重なってきた。親友の死、それをモチーフとした「自分探しの旅」となれば春樹のシチュエーションそのものだ。そして、僕と同年の村上春樹が大人の文学でやっていることと、ほぼ十年年下のこの作者が児童文学で始めたことが重なっていることに興味を覚えた。 「自分探しの旅」の行き着くところは結局は自分そのものなのだから、言えばそれはただの回り道に過ぎないかも知れない。しかし、そうした回り道をしなければ自分と言うものと出会えないのが、多分「現代」の一つの側面であり、そうした心の風景というものを、ここまでの舞台装置を使って児童文学のストーリーとして定着させた作者のセンスと力量に僕は瞠目させられる感じだった。 無論そうしたことを可能にしているのはこの作品の抑制の効いた文体である。硬質さの中にもある種の瑞々しさがあり、あれだけの文体を持っていればかなり極端な形で「小説」の側に引き寄せられそうなものだが、作者は「物語」の側にしっかりと踏みとどまっており、今後もその姿勢は崩さないでほしい。(藤田のぼる) 児童文学の魅力 日本編(ぶんけい 1998)
テキストファイル化塩野 裕子
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