宮澤賢治と飛行船

『グスコーブドリの伝記』
をめぐるあまり関係のない話

ぱろる4号 1996/09/25

           
         
         
         
         
         
         
         
         
    
どこから賢治の森にわけいるか
 文学の魅力のひとつに「秘密」という要素がなくてはならない。神秘と言い換えてもいいが、なかなかに秘密を開示してこない秘密を孕んだ作品には、原生林にふみこむような期待と不安が読者をひきつけてやまない。そして、原生林という以上、どこからが入口で、何処からが出口ということもない。あらゆる方角から、その森にはいりこみ、迷い、幻惑され、茸を拾い、花を摘み、バルサムを胸いっぱいに含んで、森林から力をあたえられてこちら側にでてくることができる。宮澤賢治とは、そもそものような作家であり、賢治作品は、そんな、どこからでも入り込める森のようなものだという気が強くしていた。
 『グスコーブドリの伝記』という物語に私は、強く関心をもったことがあった。その関心は、もっぱら知的関心で、感性的にひかれたわけではなさそうだった。
 ドイツのメルヒェン、とくにグリム兄弟の『子どもと家庭のためのメルヒェン集』に思いをめぐらすことの多い私は、即座に『へンゼルとグレーテル』を、この作品とひきくらべることをしているのだった。グリムの童話では、飢饉に逢い、いよいよ食べる物が底をついたとき、大人たちは、まず「子どもたちを森の奥に遺棄する」ことをおもいつく。子どもたちを森に捨てようと言いだした母親は、まさしく実の母親であったにちがいない。グリム兄弟の近代的教育的配慮から、おそらく継母ということに書き換えられたのだろうが、生母とは子どもたちに命をあたえると同時に、命をうばいとるかもしれない原初の太地母神の役割を担っているはずだ。当然、子どもたちの生命を摘み取ろうとする。その地母神的力を克服し、森の魔女をカマドで焼き殺して、家庭に帰還する子どもたちこそ、近代が前近代を克服するプロセスだといえなくもない。
 いや、なにも、このような分析的物言いをすることもなかろう。ただ、賢治の『グスコーブドリの伝記』では、飢餓に瀕して、まずは父親が森へわが身を捨て犠牲になり、つづいて母親が家を出て森へはいってしまう。いわば、すすんで姥捨てのプロセス、自己犠牲から、物語がはじまっていく。そして、先走っていうならば、ブドリ自身も、火山の火口で自己犠牲をまっとうして物語が終結することになる。
 みずからの身体を火に投じて、釈迦の食物となって、月にあげられた兎の仏教説話をまつまでもなく、捨身成仏とでもいおうか、そこに流れるスピリッツの差異は歴然としている。好き嫌いはあるだろうが、『グスコーブドリ』には、その賢治のスピリッツがどの箇所にも刻印されているわけである。そういう読み方もあるわけである。

クーボー博士の飛行船
 宮澤賢治の『グスコーブドリの伝記』(昭和七年発表) は、書きはじめられたのが大正一五年頃だという。その後、加筆改稿されて、賢治は病床でも筆をいれていたとされている。
 幼い兄妹を残して両親のほうが森にはいってしまったあと、妹のネリは人さらいにさらわれ、ブドリは農家の下働きや、工場の職工をしながら世間を遍歴していく。オリザが稔らぬ、たびかさなる冷害の記憶におびえているイーハトーブの農民たちの陰鬱な暮らしぶりに、物語のなかで、読者も鬱陶しく足をひきずっているうちに、突然、一条の光が差し込んだように、クーボー博士の学校にたどりつく。
 人一倍向学心の強いブドリは、イーハトーヴ市で学校を開いている不思議な博士の噂をきいて訪ねていった。そのクーボー博士は、なんと小型の自家用飛行船を操って、移動しているではないか。
「なんだ、ごみを焼いてるのかな。」と低くつぶやきながら、テーブルの上にあった鞄に、白墨のかけらや、はんけちや本や、みんないっしょに投げ込んで小わきにかかえ、さっき顔を出した窓から、プィッと外ヘ飛び出しました。びっくりしてブドリが窓ヘかけよってみますと、いつか大博士は玩具のような小さい飛行船に乗って、自分でハンドルをとりながら、もううす青いもやのこめた町の上を、まっすぐに向こうヘ飛んでいるのでした。ブドリがいよいよあきれて見ていますと、まもなく大博士は、向こうの大きな灰いろの建物の平屋根に着いて、船を何かかぎのようなものにつなぐと、そのままぽろっと建物の中ヘはいって見えなくなってしまいました。
(筑摩書房『宮澤賢治全集』第十二巻より)

  エッフェル塔をぐるりとまわって旋回飛行したり、シャンゼリゼのカフェに一人乗り飛行船「散歩する貴婦人号」で乗り着けたりしたサントス・デュモンを彷彿とさせるクーボー博士の発明家ぶりだが、自家用飛行船は、いつか実現させてみたい魅力のある乗物である。交通渋滞の道路をさけて、ビルの屋上から屋上へ、自転車を操るように飛行できたら、こんな呑気で愉快なことはない。ヴィクトリア時代には、グービルをはじめとし人力飛行船や小型飛行船の奇想天外で、大時代的なプランがいくつも出ているけれども、残念なことに実用化したことはなかった。

賢治も新聞で読んだかもしれない
 賢治と同時代の日本の飛行船は、どうだったろうか。明治四十四年、臨時軍用気球研究会は、ドイツにパルセハール飛行船を発注した。パルセバール飛行船は、すでにべルギー、オランダなどいくつかの国でも採用され、扱いが比較的簡便であることや、実用のうえですでに一定の評価があがっていることから、二十三万円という当時としては破格の値段を輸入にふみきったわけである。翌四十五年の三月に、船便で到着し、さっそく所沢の飛行場に建てられた鉄製大格納庫で組み立てられた。初飛行は、八月三十一日、技術指導に来日したシューべルト技師を操縦者にして、日本人技師ならびに軍人二人の計四人が搭乗して、所沢の空にドイツの軟式飛行船が浮上した。
 年号かわり、明けて大正元年の十月には、帝都東京上空を試験飛行したり、十一月には横浜沖での観艦式に参加のため、所沢から横浜まで一四五キロを往復、さらに陸軍特別大演習にも参加して、軍の士気をたかめた。大正二年の二月二日には、所沢と代々木の練兵場を往復飛行している。東京市民は、ときおり飛来するようになった巨大な飛行船にみとれて、新時代を予感したかのようだった。なにしろ、このパルセバールのPL13飛行船は、全長七六・六七メートルもあり、マイバッハ水冷式直列六気筒エンジンを二基そなえていた。当時の新聞記事にも、「偉容巨鯨を凌ぐ飛行船、帝都の碧空に其雄姿を示す事、既に幾たび」と報道されている。
 ところで、このパルセバールのPL13号を見上げていた東京市民のなかに、精神科医で歌人の斉藤茂吉もいた。代表的歌集『赤光』のなかに、「きさらぎの日」と題された連作があり、神田ニコライ堂下を歩いていたときに、飛行船を目撃して歌ったものが含まれている。

   二月ぞら黄色き船が飛びたれば
    しみじみとをんなに口触るかなや

   きさらぎの天のひかりに飛行船
    ニコライでらのうえを走れり

   まぼしげに空に見入りし女あり
    黄色のふね天馳せゆけば   茂 吉

 パルセバールの気嚢がニカワ塗装で黄色であったし、明らかに二月の飛行記録と符合するわけであるが、それにしても、第一首の「口触るかなや」がなんとも茂吉らしい官能性をにじませている。飛行船をぽかんと見上げているゆきずりの女性に、実際に接吻してしまったのか、どうかはあまり意味をなさない推理だが、我を忘れて心持ち口をあけた女性の唇に、思わず触れてみたい衝動があったことはたしかである。それにしても、突然のように、上空に現れる飛行船の姿には、性別や人種を越えて、思わず無心に眺めてしまうなにか非日常の魅力がある。
 茂吉が見た飛行船PL13は、その後三月二十八日に所沢から青山練兵場にむかうとちゅう、青山斎場に不時着し大破してしまった。青山はまさに茂吉の斉藤病院のごく近くである。
 大破したパルセバール飛行船の修理は所沢の格納庫で行われたが、修理というよりは、大改装といってよく、エンべーロープをはじめ、ゴンドラ部分も再設計し、まったく新しいものになったといってもよかった。益田陸軍工兵大佐の監督のもと、岩本周平技師の主務で、大正四年に名前も新たに「雄飛号」と名付けられた。気嚢の全長も長くなり、速力と上昇力が向上したのは、気嚢のフォルムの形状がより流線型になり空力学的にまさったからではなかろうか。全長八五メートル。最大速度六八・四キロ。実用上昇限度二五○○メートル。乗員は六名から十二名。全長でいえば、わが国の史上最大の飛行船となった。
 雄飛号は、初の長距離飛行に成功した飛行船でもある。所沢と大阪の間の往復飛行を試み、途中豊橋市まで無着陸で、三一七キロを五時間五十五分で飛行し、給油後、名古屋、関が原、彦根、京都と通過したあと、大阪城東練兵場に着陸し、合計四六○キロを飛行したことになった。実飛行時間は、十一時間三十四分。平均巡行速度約四○キロであった。しかし、この長距離飛行の復路、所沢をめざして飛び立つことはできなかった。エンジンの故障で修理に手間取っているうちに暴風にみまわれ、事故の危険があったために、エンべロープの水素ガスを放出し、ゴンドラは分解して貨物列車に乗せて所沢に運ばれている。その後、また雄飛号の雄姿を見た者はいない。

飛行船の話はつづく
 一方海軍では、海上哨戒任務用の飛行船を輸入し、各種運行試験している。
 まず、大正十年八月に、イギリスからSS式飛行船が横浜に航路到着、さっそく海軍横須賀航空隊に搬送された。SS式とは、Submarine Scout、または Sea Scoutの略で、文字通り対潜水艦哨戒用の飛行船である。第一次欧州大戦で、ドイツ海軍のUボートに悩まされたイギリスだけのことはある。全長五二メートル。最大幅十一メートル。最大高さ十五メートル、動力はロールス・ロイス水冷式直列六気筒九○馬力二基、木製の四羽プロぺラがついていた。速度もぐんと速く九六キロ毎時。航続距離一、二七八キロメートル。乗員五名で、武装として軽機関砲一門、あるいは軽機関銃二挺あった。初飛行は大正十一年五月十一日、大西滝治郎大尉が操縦した。だが、このSS一号も高い買い物になってしまった。初飛行から二ヵ月後に、格納庫内で自然爆発して焼失してしまったのであった。
 海軍は同じ大正十年の十一月には、フランスのニューボール・アストラ飛行船会社に大型アストラ飛行船を発注し、操縦および整備技術習得のために二○名の将校士官を派遣している。アストラ・トウレ(略称AT式)飛行船の特徴は、気嚢の断面が円形ではなくクローバー型であり、尾翼が方向舵・昇降舵とも長方形であるところである。気嚢に塗られている塗料もSS式が金属製塗料の銀色なのにたいして、褐色で、その船体も全長八○メートルと大きくで、かなり鈍重な感じがする。武装はものものしく、七五ミリ速射砲一門、七・七ミリ機関銃一門、爆弾三八○キロを搭載できた。ドイツのツェッぺリン軍用飛行船の装備に比べれば見劣りがするが、ゴンドラ部分だけを見れば空飛ぶ装甲車である。しかし、この船は図体が大きくて取扱が不便なうえ、整備費用もかさみ、効率が悪いということで、数回の長距離飛行試験のあと解体されてしまった。
 二種類の外国飛行船の試験の結果、海軍は爆発焼失してしまったSS式飛行船と同型の小型飛行船を国産で製造することになり、SS3、4、5号とつぎつぎに製作される。SS3号は、滞空二十四時間の長時間飛行記録を作るなど当初、画期的な飛行をみせた船であったが、大正十三年に茨城県北相馬郡稲戸井村字戸頭の上空で、空中爆発を起こして墜落し乗員五名全員が殉職した。原因は、気嚢に帯電して引火爆発したのではないかとされている。このため、SS式の後継船は、帯電を防ぐために気嚢の金属塗料をやめ、植物塗料に切り換えられた。 4号は海軍一号改とよばれ、つぎの五号から「純日本式軟式航空船一号」海軍の正式名称は十五式航空船と命名されるようになった。海軍では飛行船とよばず航空船とよんでいて、昭和三年に飛行船と正式呼称するまでは、すべて海軍航空船だった。
 海軍はさらに大正十五年に、イタリアからN3式6号飛行船を購入している。これは、アムンゼンの極地探検で有名なイタリアのノビレ大佐の開発したノルゲ号の同型小型船で、日本初の半硬式飛行船であった。寒冷、強風の極限状態に耐えて探検を成功させた船であったから、多大な期待がかけられたと思われる。ウンべルト・ノビレ大佐が設計し、イタリア空軍工廠で製作され、昭和二年に到着、霞ヶ浦海軍航空隊のツェッぺリン格納庫で組み立てられた。
 半硬式のN式飛行船は、気嚢の底面に竜骨があり、ゴンドラもその竜骨に密着していて、ガスを抜いても船体の主部構造はくずれない安定感のあるものだった。形態からいえば「空飛ぷカツオブシ」といったフォルムをしていて、なかなか愛嬌のある飛行船である。船体が褐色であったならまさにそんな形容があてはまったろうが、実際のN3式飛行船は青灰色に塗装されていた。乗員は七名。動力はマイバッハ水冷式六気筒二○○馬力二基搭載。全長八○・一メートル、最大速力二○キロ毎時、航続距離二○○○キロメートルという仕様であった。十分に洋上偵察飛行が可能な性能である。ただし、暴風を避ければのはなしである。N3式六号は、同年十月二十二日の海軍大演習に参加するも、夜間偵察飛行中に暴風に遭い、伊豆の神津島に不時着するも、乗員七名脱出後、暴風に船体が吹き飛ばされ、無人のまま海上に漂流し神津島南西三浬のところで爆発してしまった。暴風にさえ遭わなければ、航続距離や完成度からみて惜しい船体であった。ノルゲ式飛行船は図面をもとに日本でもライセンス生産され、N式ではなく三式8号として三菱航空機、東京瓦斯電気工業、藤倉工業の三社で各部を分担して製造さ れている。昭和四年に完成し、昭和六年三月には、六○時間の滞空記録を樹立している。船長は、ツェッぺリン伯号で、ドイツから日本まで試乗してきた経験をもつ藤吉直四郎海軍少佐(のちに大佐)であった。しかし、同船はそれ以後、これといった活躍の場も与えられず、昭和七年一月、ようやくに飛行船の実用価値に見切りをつけた海軍が、軍事費節減の名目で解体を命じた。昭和五年に開かれたロンドン軍縮会議で、海軍も装備削減を余技なくされた時節ではあった。飛行船はリストラの対象にまっさきにされてもしかたがなかった。明治四十三年に臨時軍用気球研究会が発足して以来、二十余年。日本の航空史上から、軍用飛行船は消え去った。ブイャント航空の分野でいえば、太平洋戦争末期の風船爆弾がひとり気を吐いているところが情けないが、風船も飛行船も兵器として有効でなかったのは幸いだった。

ようやく賢治の飛行船
 さて、クーボー博士の親切により、火山局に勤めることになったブドリは、こんどは空中から肥料を散布する火山局の飛行船を見ることになる。小型飛行機を使っての農薬の空中散布は、盛んに行われていてめずらしくもないが、農業技術革新に飛行船を使うアイデアは賢治が最初のようである。確かに簡便に離着陸できる小型の飛行船があれば、滑走路がいらないわけだから、そのほか作柄の状況や森林調査など空からの調査にうってつけの道具になる。静かにホバリングして、野生動物をいたずらに驚かせないようにすることもできるわけである。
 『グスコーブドリの伝記』は、近年アニメ化されて劇場映画になっている。(中村隆太郎脚本/監督・制作あにまる屋)アニメ版では、クーボー博士の乗る飛行船が、カブト虫型にデザインされていてなかなか可愛い。火山局の飛行船のほうは無線操縦になっているらしい。最近でも、雲仙普賢岳の噴火口を撮影しようとラジオコントロールの飛行船が使われたことが思いだされる。その飛行船は、ガス圧があがりすぎて途中でエンべロープが破れてしまったようであるが、測量調査などで航空写真の代わりに繋留気球が使われていることはあまり知られていないようである。空中に長く留まり、ゆっくりした速度で広い領域を探査できるので、重力測量で地中に眠っている石油や鉱物といった資源調査に適しているわけである。また、大気汚染のサンプルをとったり、風向による汚染物質の拡散などの追跡調査など、環境調査にはうってつけの性能を有しているのも確かである。ただ、そのためには、民間企業ではなく、国家予算で運用する飛行船が必要で、現状では、(財)日本産業技術振興協会の新飛行船システム研究会でその有効性を研究し報告書にまとめているだけで、宮澤賢治の『グスコーブドリの伝 記』ほどにも飛行船は活用されてはいない。
 宮澤賢治の『グスコーブドリの伝記』にかこつけた飛行船談義のように思われるかたもいるとおもわれるが、なにが資料となるかわからない。たとえば、タイタニック号の遭難と、『銀河鉄道の夜』の一節とのあいだの関係のように、関連があるのか、およそこの地上で起こった出来事が、賢治の魂にどのようにふれたであろうか、とおもいめぐらすのも、あながち無駄ではないような気がするのである。

付記-この文章は拙著『飛行船ものがたり』(NTT出版) の本文と重複している箇所があるが、著者、つまり私の好意で加筆転載させていただいた。(天沼春樹)
ぱろる4号 1996/09/25