ぎょろ目のジェラルド

アン・ファイン

岡本浜江訳 講談社 1991

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 イギリスの二大児童文学賞のカーネギー賞とガーディアン賞を一九九O年に両方受賞した作品だと聞いて、さっそく読んでみた。驚くほど楽しい本だった。作者のアン・ファインは、自分の中にいる読者が読みたくてたまらないといってくれるような、面白い、楽しいものを書くといっているが、その通りの作品だ。涙がでるほど笑えるのだが、作品のテーマは、母の再婚という深刻なものだ。では、テーマと楽しさがどう結びついたのだろうか。
 まず、あれっ、と思うのが、ユニークな構成だ。ある朝、おとなしいヘリーが、泣きながら教室をとびだしていってしまった。先生は、親友でもないキティに、追いかけていきヘリーのそばについているようにいう。キティに、自分が選ばれたわけがぴんときた。ヘリーの母親がヘリーの気にいらない相手と再婚しようとしているのだ。「そういう問題にかけちゃ、あたしは世界最高の専門家なんだから」と、キティは、ヘリーに自分の体験を話しだす。
 となりにすわっている友だちに話すのだから、使われるのは、「ねえヘリー、聞いて。」という調子の友だち口調、「あたし」という一人称、そしてそれぞれのエピソードは生き生きとした会話体だ。これに加えて、どきっとするようなどぎつい言葉も使ってキティは自分の感情をぶちまける。ヘリーでなくてもキティの話にひきこまれる所以だ。 キティの体験談は、ママの新しい恋人であるジェラルドへのキティの反発の記録だ。キティはジェラルドがいやでたまらない。ジェラルドがキティと妹に大きなチョコレートの箱をかかえてやってきた最初の晩、ママがはしゃぐ様子やジェラルドがママをじろじろ見るのが気にさわり、反核運動にもけちをつけられて、「ぎょろ目ーっ!」とどなってしまう。
 どのくらい嫌いかは、パパに電話で「ぞっとして、きたなくて、きみがわるくて、胸がわるくなって吐きそうになっちゃう」と話したり、毎晩、ジェラルドを空の星にするための恐ろしい事故を考えて眠れなくなったり、先生に「私のきらいなもの」という題で作文を書いたりするほどだ。
 いくらキティが反発しようとジェラルドはびくともしない。人間が大きいのだ。あたたかくキティを見守りながら自分の思ったことは主張する。むだな電気を消したり、家族の役割分担にも口をだす。キティの歯がたたないところも読者にはおかしい。大嫌いなジェラルドを、キティが見直すようになるのは、反核デモがきっかけだ。デモの一行はバスででかけ、雪玉作戦で潜水艦基地の丘の返還要求をする。雪玉作戦とは雪玉式に逮捕者をふやしていく作戦だ。もともと反核運動に批判的なジェラルドはこの日、朝から機嫌がよくなかったが、軽率にもママが逮捕者のなかに入ってしまうと、かんかんに怒る。でも、ママが仮釈放で戻るまできちんとキティたちの面倒をみてくれた。この夜、初めて、キティはジェラルドがものの見方は違っても頼りががあるいい人なのではないかと考える。
 せっかくキティが考えを変えたのに、家に帰ってきたママは、逮捕のことでジェラルドと大喧嘩してしまう。ジェラルドがいなくなってキティと妹は寂しくてたまらない。キティはジェラルドはママだけのものではないと憤慨する。ママの裁判の日、キティの思ったとおり、ジェラルドは裁判に来てくれた。その夜、あたしたちも会いたいからと、キティはママにたのんでジェラルドを家によんでもらい、二人を仲直りさせる。
 キティの話が終わるころには、ヘリーも元気になり、今度は自分の話をしようとする。だが、そこへ先生が来てヘリーの話は永遠にお預けとなる。しゃれた終わり方だ。
 アン・ファインは、現在一番の心配事は環境汚染だという。核兵器についてママとジェラルドの意見を対立させたり、キティの考えを変えるきっかけにしたり、反核運動を実にうまく物語の筋にとけこましている。 親の離婚や再婚を扱った作品は、暗く重いと考えるあなた、ぜひ一読を!(森恵子)
図書新聞 1991年6月22日