子ともの本ギヨ-力イの怪

甲木善久


ぱろる8号 1997/12/25

           
         
         
         
         
         
         
    
 今回、本誌編集部から私に与えられたテーマは、「子どもの本」の問題点-児童文学というカテゴリーで括ってきたことの問題点は何か? というものである。
 なーんて、書き出し方をしちゃうと、「本誌編集部とかいいながら、編集長はアンタでしょうがァー」といったお叱りの声が聞こえてきそうだが、当誌の場合、企画は編集委員全員の合議によってキチンと組み立てているわけで…。まあ、今回の原稿に関しては私も一人の物書きとして書いていい、というお許しが出たものだから、こんな感じでしゃべらせてもらおうかと思うのである。
 さて、子どもの本、ないしは、児童文学という括りによって発生する問題点は、今日、かなり深刻になってきている。もちろん、このような括りがあること、それ自体に問題があるわけではない。それどころかむしろ、そうした括りを武器として、自在の表現を発揮している作家も数多く存在するのである。だが、そのような括り(カテゴリーというよりも商品ジャンル)に寄り掛かり、無自覚にアグラをかいている体質が存在するのも、また事実である。そこで今回は、そうしたことを具体的に語っていくため、昨夏の神戸事件の容疑者・少年Aの写真掲載(『FOCUS』七月九日号)に対する灰谷健次郎氏の版権引き揚げ問題をめぐりながら、論を展開したいと思う。

(略)やっかいなのは、〃悪〃が見えないということです。例えば「フオーカス」の今回の元凶は誰なんだと突き詰めても、実は見つからないと思うんです。企画したものが悪いのか、編集長が悪いのか、実際に割りつけたものが悪いのか。仮に見つかったとして、彼は本質的に〃悪〃といえるのかどうか。そこには、「凄絶なる確信犯」なんか一人もいないという奇妙さがあると思う。自分の一生をかけて、将来を棒に振ってでもして少年の顔を載せ、それが現下、最も実現すべき社会正義だなんて、本当は誰も思っちゃいない。今回手を汚さずに、圏外でしたり顔してる人のほうが、ヤバかったりする。メディアというのは、そういう連中の集まりだと思うんですよ。そこが手に負えない。

 これは、『論座』十一月号(朝日新聞社)に掲載された対談「少年Aとメディア 灰谷健次郎×辺見庸」での辺見庸の発言(八二頁)である。で、なぜ、これを最初に引用したのかといえば、この発言の主旨がそのまま、現在の子どもの本業界が抱え込むモンダイのある体質を端的に代弁してくれているように思うからだ。
 そう、そのモンダイを一言でいってしまえば、作り手たちに当事者感覚が希薄だということ。
 最近、マス・メデイアに子どもの本のニュースが取り上げられるとき、必ずといっていいほど「不振の続く児童書の中で:・」という枕詞が使われるけれど、こうした物言いに怒りを覚える作り手が何人いるか? それが自分に向けられた刃であるという自覚があれば、「いつもいつも同じことばかりいいやがって、こっちだって頑張ってるんだぞ、コンチクショー」くらい思うのが当然である。また、「近ごろの子供は本を読まなくなった」とかなんとか、ここ何十年も言い続けながら、自分達のあり方についての反省はない。「マンガのせい」「ファミコンのせい」「受験産業の拡大のせい」などと、その原因を周りに押し付ける言説を、お題目のように唱えてきた。あるいは、「童話」とか「児童文学」とか、その呼称にはこだわるものの、その内容的質的実体への問題意識が低い。だから、「読まれてこその文学」という、基本的かつ最も本質的な命題が意識から抜け落ち、「こんなにも素晴らしいものが読まれないのはおかしい。読者の意識が低いのだ」風の傲慢な考えをいつまでたっても捨て切れないのだ。さらに、こうした偏狭な考えを持つ作り手ほど、読者に受け容れられている(つまりは売れ ている)作品をけなし、そこから一線を画したところに自らの作品をイメージしている。その結果、「私は児童文学者だ」なんていう、実体のないプライドを掲げ、そうした呼称にこだわったりするのである。

 「凄絶なる確信犯」として、「自分の一生」に強く影響を与える版権をかけ、自らの理想とする「社会正義」のために、灰谷健次郎氏は闘った。その姿勢は、作家として、言論人として、立派である。
 こうした氏の言動は波紋を呼び、ご存知のように、さまざまな言論が巻き起こった。ところが、そのような賛否が提出される中で、子どもの本関係者達の発言は極端に少なかったのは奇妙である。
 私が直接目にしたのは、川島誠氏の文章だけだった。そして、私自身の情報不足を補うべくいろんな人に聞いてみたところ、上野瞭、佐藤通雅の両氏がそれぞれご自身の雑誌で書かれているという。
 「文学」や「子ども」を自らの言論のモチーフ(の一部)として持ち、現在を生きている自覚を持った表現者であるならば、この三氏のように、灰谷問題に関して発言したくなるのは当たり前のことのように思う。
 だからこそ、三人だけ? という気がするのだ。
 戦後民主主義なり、ヒューマニズムなりを金科玉条のごとく作品内で振り回していた作家は、掃いて捨てるほどいたではないか。そういう理想を条文に盛り込んだ団体も、一つならずあったはずだ。にもかかわらず、『フォーカス』に掲載された、灰谷健次郎氏の意見文を読んで、なぜ黙っていられるのか不思議である。同調にせよ、疑問にせよ、反論にせよ、もうちょっと多くの議論があっても良さそうなものではないか。
 灰谷健次郎の作品は、プライドの高い「児童文学者」達にとって、認めることのできる数少ない「売れる」作品だったはずだ。そして、今回の彼の発言と行動は、それらの作品が描き出した世界の延長線上に確かに位置する、作家としての一貫性を持ったものだった。が、にもかかわらず、主義主張によって「児童文学」に関わっていたはずの人々は黙ったままだった。まさか、「児童文学者」には、教諭職にありつつ才能を発揮していらっしゃる方も多いから、神戸事件でメディアに映った教師達のあまりのバカさ加減に自らも恥を感じ、それで沈黙してしまったというわけでもあるまい?