課題図書の存立構造(抜粋)

山中恒

初出『教育労働研究2』(73・10社会評論社)
所収『児童読物よ、よみがえれ』(79・10 晶文社)

全文


           
         
         
         
         
         
         
    
【抜粋A】

 私が本稿のための資料を整理しているとき、格好の一文が目についた。八月二○日(七三年)付け読売新聞のコラム 「ぺーパー・ナイフ」での、『ブルータスよ』と題した作家阿部昭のものである。

〈夏休みで毎日子どもが家でゴロゴロしている。テレビにばかりかじりつくので、たまにはタメになる本でも与えようかと、殊勝なことを思いついた愚妻が本を買ってくる。それを見た私が、「何だそれは?」ときくと、「今年の課題図書よ」とこともなげな返事である。私、にわかに不愉快になり、敵しがたい思いでだまりこむ。ブルータスよ、おまえもか…。/私はその本年度全国なんとか課題図書なる児童書の中身を慎重に検討してみたわけではない。いわんやそれらがどうやって選ばれる仕組かも全然知らない。うすうすしっているのは、毎年夏休みになると課題図書に指定された数種の本が書店の店頭に山積みされて、とぶように売れてゆくらしいということだけだ。なんのことはない、同じ物書きの一人として私はその売れ行きをヤッカンでいるだけのことらしい。小説稼業のほうでも、特定の人気作家のものやはなはなしく賞を取った作品が圧倒的に売れるのは当然の話で、べストセラーにならないのはそういう物を書かない作者の自業自得というべきである。課題図書にしてもしかりで、あまたの類書の中から選び抜かれたものであるからには、さぞや優れた内容のものに相違あるまい。/にもか かわらず、私はなんだか面白くない。全国数百万の学童が数種の「課題図書」に砂糖にたかるアリのごとくむらがっている図を想いうかべて、少々ユーウツになるのである。それらの表紙にれいれいしく飾られた「今年度」だの「選定」だの「必読」だのという金文字ラべルにつられて、愚妻のような無教養、不勉強の母親どもが得意になって買って帰り、「タメになるから」というので子どもたちの口に無理やり押しこむ。その暴力的なしかけがやりきれぬ。/一書を「指定」したり「必読」させたりするのは文化へのブジョクである。〉

 まず、この阿部氏の文章を冒頭に掲げた理由を簡単に説明しておこう。
 所謂「課題図書」とよばれるものについて、一般的に知られているのは、この程度であろうと思われる。たまたま筆者の阿部氏は、作家的な嗅覚で、この一般的な認識に立ってさえも、その本質的な怪しさを弁別して、「文化へのブジョクである」と明言しているのだが、一般には、その怪しさは認識されていない。主催者のいうように「年に一度、本を読まない子どもたちに手渡すべき本一という受取り方をしている。阿部氏は「愚妻のような無教養、不勉強の母親どもが得意になって買って帰り」と、細君を槍玉にあげているが、一応この文章を額面通りに受取るとしても、実は一般的に教養、勉強の有無に拘わらず、「課題図書」を買わざるを得ない情況もあるのである。そして、阿部氏のように児の父としての立場以外に、児童図書とか児童文学にかかわりを持たぬ向きでさえも、いまや「課題図書」に対して疑念を抱き始めているのである。
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