帰ってきたキャリー

ニーナ・ボーデン作
松本亨子訳/フェィス・ジェィキス絵/評論社 1973/1977

           
         
         
         
         
         
         
     
 疎開を背景とした物語ときいただけで、反射的に悲惨な生活、空腹、感情の抑圧からくる人心の行き違いなどを思い浮かべ、そうしたネガティブなくらしをこれでもか、これでもかと書くことによって、戦争の恐ろしさを、戦争を知らない子どもたちに伝えることを目的としている戦争児童文学がある。それらは、実際の体験にもとづいているという強味を持つ反面として、悲惨さという現象に目を奪われて、戦争の本質にまで切りこめないままに終っていることが多い。
『帰ってきたキャリー』は、日本の児童文学で疎開生活を知ってきたものには、いかにも、甘くうつる。戦争を枠としてだけ使っているように一見みえる。しかし、三0年たっていても、キャリーにとっては、疎開生活は終っていない、ずっと続いていたのだとした点、生活の変化によって、いや応なく大人のくらしの裏側までもみてしまい、その実、それはキャリーなりの精一杯の理解にしかすぎなかったのだという残酷性で、弱くはあるけれど、戦争という巨大なもののもつ真のこわさに触れえていることは、(もちろん、戦勝国イギリスにも疎開があったという意外な発見も含めて)、体験派による息苦しい作品と比較してみると、物語性豊かなことも含めて、新しいアプローチのように思われる。
 第二次世界大戦中、ロンドンの空襲のため、ウェールズの谷間の村に疎開していたキャリーが、30年後、自分の子どもたちをつれて、その場を訪れることから物語がはじまる。
 キャリーと弟ニックがあずけられたのは、食料品店を営み、町会議員でもある、けちで気難しいエバンズ氏と、兄の重圧でいつもびくびくくらしているその妹ルーの家であった。
 二人は、トイレは庭をつかい、じゅうたんをしいておくと減るといわれ、踏まないようにするようなくらしの中で、〈ドゥルイドの谷〉とよばれる谷底にある家-エバンズ氏の姉ディリスの家で、もとは、炭坑主として豪華にくらしていたが、夫も死に、今は死を待つばかり、エバンズ氏とは、絶交状態にある-を訪れ、そこで疎開仲間で学問好きのアルバートに出会い、病身のディリスのかわりに家のきりもりをし、夫のいとこで知恵遅れのジョニーとくらしているへプジィバーを知る。へプジィバーは、まるで魔女のように、言葉によらないでも二人のことを理解するようで、お話がうまく、また、いつでもたっぷり用意してくれる料理の腕が素晴らしくて、度々訪れ、その度に、心身ともに回復する二人であった。へプジィバーの話の中では、アフリカの奴隷の少年の頭骸骨が家に伝わっていて、家から出すと、災いがおこるという話が印象に残っている。デリスの死後、遺産は、エバンズ氏のものになり、ヘプジィーバもジョニーも行き先がなくなる。キャリーもアルバートも、それぞれのやり方で心を痛めるが、うまくいかない。そんなある日、母親によびかえされることが決まって、動揺するキャリ ーは、谷底の家から頭骸骨を持ち出し、池になげ込む。ルーおばさんは、アメリカ兵と駆け落ちするために家を去った。遺言状をぬすみ、ディリスの指輪をぬすんだと思っていたエバンズ氏は、そうではなかった。エバンズ氏を一人残して去っていく汽車の窓から外をみると、谷底が火事になっている。手紙をそちらから書くようにといっていたアルバートとの約束もはたさず、その情景がいつも頭に残りながら三○年たって、また谷間にきたキャリー。そこには、エバンズ氏が一人で死んだあと、アメリカのルーおばさんからアルバートが買い戻してくれたという家に住んでいるへプジィバーとジョニーがいたのだった。
 ニーナ・ボーデン(一九二五-)は、児童文学の作家というより、大人の小説を書く作家として出発したが、その過程で、子どもがいかに閉じ込められた存在であるかに気付き、論理的推移として子どもの視点から、児童文学を書きはじめた(五七年から七七年までに10冊出版している)作家である。初期の作品では、ことこさら子どもの本らしくしようとする筋立てが不自然で、せっかくの美しい文体が、うまくとけあわないような欠点をもっていたが、七三年の「帰ってきたキャリー」では、二つの家という狭い空間の中で一人一人の人物像をくっきり描くことによって、複雑な人間心理を通して、物語が進むという内面的に深いものになり、文章とプロットがそぐうことになった。
 親子関係からはずされた子どもたちが、ほとんど外の世界との接触のないまま、閉じ込められた谷間で、発見する二種類の大人がいる。エバンズ氏とルーおばさん、どちらも欠点のある大人、一方は、まるでいいところのないょうな偏狭な男の人で、一方は、甘いけれど、まったく頼りがいのない女の人、ニックはルーを、キャリーはエバンズ氏をそれぞれのやり方で理解する。へプジィバーとジョニーは完全な人間として。へプジィバーは、お話と食べものに象徴されるように安心感を人に与え、やさしさと愛でずべての人を包みこんでしまい、ジョニーはジョニーのやり方で人間を見抜くことができ、子どもたちの安らぎの存在となっている。お母さんは、もとの世界への橋がかりで、ディリスは、2種類の人間関係をつたぐ橋がかりとしてある。
 キャリーの子どもたちにとって、ニックおじさんは、あくまで中年太りしたニックおじさんで、子ども時代が想像しにくい。しかし、三○年という時間がたってはじめて、全景が、全人物がはっきりみえただろうキャリーにとって、疎開時代の自分とは連続している存在なのである。よくみつめていけば、誰も悪人のいない人々の中で、様々の葛藤が生じる。お互いに理解しあえない苦しみと悲しみがある。疎開という枠は、例えば、キャリーの母親が手紙によって、親元に帰るように告げてくるとき、「よろこんでいるのかどうかわからない、妙な気分」という反応できいてくる。
 キャリーという感じやすく、けなげな一人の女の子が異質なものとぶつかる度に、それなりに理解していく世界を、少しずつひろげていくことによって、狭い閉ざされた視点も、内にひろがり、物事の本質をさぐることにもなっている巧みな構成の作品である。(三宅興子)
世界児童文学100選(偕成社)