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十三歳の主人公サイモンは、軍人だった亡きパパを今も尊敬し、愛しています。なのにママは再婚してしまう。それもパパと正反対、デブで皮肉屋の絵描きのジョーと。夏休み、寄宿舎を出てジョーたちの住む田舎の家へ。ママは幸せそうだし、生前のパパをあまり記憶していない、幼い妹ジェーンは、ジョーがまるで本当のパパのようになついている。 ジョーとママとジェーン。三人だけの家族のようで、サイモンは溶け込めません。溶け込みたくもないのだけれど……。サイモンのとっての家族とは決して取り替えのきかないもの。パパがいなくなればその空白を埋めることなど、できないはずなのです(あえて埋める資格のある者を探すとすれば、それはパパの息子のサイモンとなるでしょう)。だから、よその者を、パパの変りとして家族の中に引き入れたママの行為を受け入れられない。 ジョーにママに、さまざまな嫌がらせをするサイモンですが、そのことによって何も、満たされたり叶えられたりするはずもなく、関係性はますます悪くなるばかり。ある時サイモンは、ママはパパを愛していなかったことを知ってしまう。これは自分自身を否定されたも同じだと思うサイモン。亡きパパのお墓がある方向に向かって、力を貸してくれるように祈るのですが、その願いはパパではなく、たまたま同じ方向にあった水車小屋に届いてしまう。そこは以前三角関係のもつれからの殺人事件があった場所であり、「憎悪」が閉じ込められていたのです。 サイモンの憎悪に水車小屋のそれが呼応し、三体のかかしの姿となって、復讐を果たすべく、家に近づいてくる。ジョーを、ジェーンを、そしてママを殺すために。 かかしたちを消滅させる術はたった一つ。ママたちに向けた憎悪をサイモンが放棄し、彼らをそのまま受け入れること。 オカルト仕立てですね。それはこの問題が、サイモンにとっていかに大きいかを象徴しています。現実の中だけでは処理できず、非現実という迂回路を通るわけです。と同時に、ママはママ以外の存在であってはならない、つまりパパの妻であち、サイモンの母であることからは、逸脱してはならないという、サイモンの憎悪を発生させる源となっている考えの非現実性を浮き彫りにもします。 ママは、サイモンにとって欠けてしまったパパの代わりをしてもらうためではなく、自分の新しい伴侶として、ジョーを選んだだけなのですから。それを受け入れたとき、サイモンは「パパの息子」ではなく、サイモン自身となれるのです。 家族とはあらかじめ決められた集団ではなく、それに属する個々が、日々、関係を作り上げていくことから成り立つのを、この物語は教えてくれます。 ところで、「愛について」「夜の鳥」、そして「かかし」と、男の子が主人公の家族物語が続いたことにお気づきだと思います。しかもそれらは、家族の形が揺らいでいる点で共通しています。男の子達が安心して、外で遊んで(冒険して)いるわけにはいかない時代というわけです。(ひこ・田中)
「子どもの本だより」(徳間書店)1997年5,6月号
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