過去への扉をあけろ

ハンス=ユルゲン・ペライ

酒寄進一訳 佑学社 1990

           
         
         
         
         
         
         
         
     
 十月一日に東西ドイツの統一がなり、戦後のドイツに大きな一区切りがついた。ナチス・ドイツのことをあつかった衝撃的な作品としては、ユダヤ少年の悲劇の日々を描いたハンス・ペーター・リヒターの『あのころはフリードリヒがいた』があるが、本書はフリードリヒとはちがった意味でまた衝撃的な作品だ。本書には、二つの特徴がある。一つは今までの戦争児童文学とちがい、作者が戦争を体験していないということと、もう一つは、作品の舞台も現代で、中心になる登場人物も戦争を知らない世代ということだ。ドイツのハンス=ユルゲン・ペライは高校の歴史の教師で、十数年前に全国規模でおこなわれた若者によるヒトラー時代の日常生活の調査をもとにして、この作品を書いたという。
 北ドイツの小さな町クラインシュタットでは、町の七百年記念祭がおこなわれることとなった。ローレンツェン校の九年B組の生徒たちは、歴史展示会のために、新任の歴史教師ボルマンの指導のもとに、クラインシュタットのナチス時代について調べはじめる。(九年は日本の中学三年生にあたる)
 市役所の文書室を調べる係り、町の人にインタビューする係り、展示会に必要な歴史的背景をまとめる係りとクラスが三つのグループにわかれて調べをすすめるうちに、思ってもみなかった事実が明らかになる。ごくありふれた田舎町のクラインシュタットでも、ナチスによるユダヤ人の迫害があったのだ。ユダヤ人の店に対しての突撃隊のボイコット、ユダヤ人の財産をとりあげる措置、クラインシュタットに捕虜収容所がありそこでおこなわれた迫害行為などだ。はては、学校の名前にもなっていて、戦時中反ナチス抵抗運動をして処刑された町の英雄的存在のローレンツェン市長が、町のナチス党員と手を組んで便宜をはかっていたことまでわかる。
 こんなことまで調べて大丈夫だろうかと読んでいるほうがはらはらしてくるが、案の定郷土協会から圧力がかかる。このあたりからは、一種のサスペンスドラマでも見ているような感じだ。展示しようとした資料は市役所から貸し出してもらえず、学校にならべた展示品まで、校長と教頭によってとりはずされてしまう。ボルマンとB組の生徒は、父母会やマスコミも動員し展示会をほかの場所で開き校長たちを出しぬく。
 サスペンス・ドラマと書いたが、本書はドキュメンタリー・タッチで構成されている。ボルマンが九年B組の歴史担当になった一月七日の始業式の日から、七百年祭の六月八日までの五ヵ月間が「一月三十日、水曜日、午後四時、ハリーの店」のように時間と場所まで明示され場面ごとに描かれていく。この場面を追ったドキュメント風の描き方によって、本書は筋の展開も早く、重いテーマをあつかいながら軽快さを失わない作品にしあがっている。
 ペライの歴史を見る目は確かだ。ペライは歴史を一面的に見ることはしない。元突撃隊員の老人やナチスに抵抗した人の話、そして強制収容所の悲惨さを見て見ぬふりをした町の人たちのことなど、戦争をさまざまな角度から見つめる。鬼軍曹のようなシュトック教頭までも戦争の傷あとをひきずっているのだ。話を受けとめる生徒たちにもさまざまな立場をとらせている。正義感に燃え突っ走ろうとする者、「…あのじいさんにとって、突撃隊は第二の家族みたいなものだったのさ。…マジに、おれ、そういうのに入団しなかったかどうか自信ないよ。」の言葉のように当時の人々の気持ちになって考える者、無関心をよそおう者などだ。
 また戦争のことばかりでなく、大人の入り口にいる生徒たちのいきいきとした日常の姿も、この作品の魅力だ。
 中国や韓国への侵略をはじめ、日本人にも直視し負わなければならない戦争の負の遺産は多い。そして歴史をふりかえることは、未来をみつめることにもつながる。ぜひ日本の過去への扉もあけてほしいと思う。(森恵子)
図書新聞 1990年11月17日