|
舞台は、政情が不安定でほとんど一年ごとに軍事クーデターが起きていた一九六O年代初めのシリア。「ぼく」は、ダマスカスに住む十四歳の少年、父さんはパン屋で母さんと妹の四人家族だ。ぼくには友達が三人いる。七十五歳のサリームじいさんと、同級生のマハムートと、ヨゼフだ。ぼくは一つ年下のナディアが好きだ。ナディアのお父さんは秘密情報機関で働いている。ぼくは、「えんぴつと紙で、いつも真実を追求して政府をおびやかす」新聞記者になりたいと思っている。作者の自伝的色彩の濃い作品である。 ぼくは、字が書けないので大事な体験をみんな忘れてしまって残念だ、というサリームじいさんの言葉から、日記をつけ始める。物語は、十四歳から十七歳まで三年半のぼくの日記を追って活力に満ちた青春時代を描き出す。 一年目は、息子を早くパン屋の仕事につけたがっている父さんに学校をやめさせられるかもしれないと思いながらも、学校へ通ったり夏休みにアルバイトをしたりのぼくの日常が描かれる。大きな出来事としては、ぼくの詩が出版社に認められたこと、マハムートとヨゼフと三人で不正と戦う秘密組織「黒手団」を作ったことである。 二年目は、ぼくの新聞記者修業である。パン屋になるため学校をやめさせられたぼくは家出をしようとするが、半年頑張ってみろとサリームじいさんにとめられる。打開策として、ぼくはパンの配達係になる。配達先でぼくはマリアムという女性に気に入られ、マリアムさんに新聞記者のハビープさんを紹介される。新聞記者になりたいというぼくの希望をハビープさんはなかなか取り合ってくれないが、何もしないぼくの父さんが警察に連行されたことやスパイに送った黒手団の警告状を知り、ぼくが新聞記者になる手助けをしてくれることになる。そればかりか、本屋の働き口まで世話してくれる。 三年目は、地下新聞の発行である。反政府的な記事を書き逮捕までされたハビープさんは、一度は新聞記事を書くのを断念するが、ぼくが靴下にいれて配る方法を思い付くと一緒に靴下新聞を書こうと言ってくれる。記事を書くのは、ハビープさんとぼくとマハムート。靴下新聞は「シリアで唯一まともな新聞」として評判になる。新聞が五号まで出たとき、ハビープさんが逮捕される。ぼく達はナディアも入れて、新聞を続ける決心をする。 作者は「ぼく」の気持ちをストレートに読者に伝えたいために小説の形で書いていたものを日記の形に直したそうだが、その効果は十分に出ていると思う。学校をやめさせられたぼくの悔しさ、詩集が出た喜び、恋の悩み、父さんを拷問した政府に対する怒りなど手に取るように伝わってくる。 本書は、新聞記者志望の少年を主人公にしたため職業小説的要素が加わり、しかもそこに政府を向こうにまわしての新聞発行という冒険的要素まで加わって、日記形式の作品には珍しく迫力ある筋の展開となっている。折しも日本では新聞週間が始まったが、危険を承知で地下新聞を書くぼく達の勇気と正義感とエネルギーにははらはらしながらも思わず拍手を送りたくなった。日本は平和で国も安定しているが、若者は受験戦争の中で汲汲としている。十七歳で地下新聞発行などという大きな仕事ができ、青春のエネルギーを燃焼できる「ぼく」が羨ましい。また、書くことを職業とする新聞記者の訓練として日記の形式はぴったり合っている。 作者のラフィク・シャミはダマスカスで創作活動を始めたが現在はドイツに住み外国人労働者作家の旗手とされている作家である。シャミは、シリアに暮らす人々のこととシャミの少年時代、それに無二の親友だったサリームじいさんのことを知って欲しくてこの作品を書いたと言っている。この言葉通り、サリームじいさん始め町の人々は生き生きと描かれている。父さん、母さん、カーティプ先生、マハムート、ヨゼフ、ナディア、ハビープさん、スズメを 連れた変人、皆それぞれにたくましく精一杯生きている。中でも、ぼくを陰日向になり助けてくれるサリームじいさんは印象的だ。「わしは(人生で)あきらめたことは、一度もないぞ」や「三百回だまされても、新しい友だちをさがしつづけ、あまり疑り深くならんことだ」などのサリームじいさんの人生哲学は味わい深い。アラブでは星は希望を表すという。本書の題名の「片手いっぱいの星」とは、作者の、ぼくの、そして作品に出てくる人々皆の将来への希望を象徴しているのだろう。 チューリヒ市児童図書賞など四賞を受賞した本書は、シリアといえばレバノンやイスラエルのそばの争いが絶えない国としか思い浮かばなかった私の目を開かせてくれた。(森恵子)
図書新聞 1988年11月26日
|
|