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角田光代は触覚的な小説家だ。彼女はつまり、見ることや認識すること、聞くこと、喋ることではなく、常に「さわること=ふれること」を中心にすえてコトバを操ったり物語をつくったりする生理を持っている。角田の作品に見つけられるかずかずの美点、例えばフレンドリーな「ひとなつこさ/ひと恋しさ」、胸が痛くなるような「さびしさ」、そして骨太の「きびしさ」などは、すべて触覚性から由来するといっていいだろう。 本書『キッドナップ・ツアー』は角田が手がけた児童文学だが、あの触覚性はここでも相変わらずフルで全開だ。 「夏休みの第一日目、私はユウカイされた」。--小学生の女の子・ハルがアイスクリームを買いに行こうと外へ出て、通りかかった別居中の父親・タカシにユウカイされるところから物語の幕は開く。このタカシは、そう突っ込んで描かれているわけではないのだが、相当なダメ人間みたいで、実の娘を人質にして妻に何事か要求しようとしているらしい。 とんでもない父親だ。とまれ二人は、「ユウカイしたんだから居所がばれないように、あちこち逃げまわ」っていく。ホットな一夏のツアーの始まりだ。 あるときは安宿に泊まり、あるときは海に向かって歩き、そして夜の山の小道を歩く。旅人を一晩受け入れてくれるお寺を目指して。----角田は二人の彷徨を描くのだが、両親の別居の事情その他についてはあまり明らかにしようとしない。というか、そもそもその辺に特別なスポットを当てる気はない。また、「ユウカイ」で結ばれている父娘についても、それが好ましい親子関係なのかどうかなどの判断は一切保留している。 結局、角田のコトバは何かを、ここでは家族・親子関係を、知識人として例えば社会学的に、あるいは教育学的に「問題化」するタイプのものだは決してないだろう。観念的な見地、理念的な見地、より「広い」視野などから講釈しはしないのだ。もっと大切なことがある。つまり、間接的に頭で「問題化」する前に、世界に直接「ふれて」みること、今ここの「せまい」範囲で現に起こっているものごとに直接、じかに「さわって」みることであって、これこそが角田光代のコトバが熱中している作業に他ならない。 一般に触覚は他の近く、とりわけ理性的な判断、観念的な認識にくらべると、能力の届く範囲の圧倒的な「せまさ」、大して「明晰」ではない対象の把握、あとドンくさい雰囲気のせいで何となく格下に見られている。とんでもない間違いだ。精神病理学者。ミンコフスキーの言葉を思い起こそう。「世界を広大無辺なものとして、変わりやすいものとして、また耐えざる無情な流れとして考察しよう。そのとき、何かに『ふれる』ことができたり、存在や物との直接的な接触ではないだろうか」。 まさに奇蹟であって、すべての知覚、観念、物事、すなわちわれわれの「世界」はこの触覚という土台の上に組み立てられてられる。触覚がなければ一切は影のように儚いまま、粉々のままに違いない。 角田のコトバはこの手の「奇蹟」として、今ここにある「存在や物」を丁寧に「さわって」確認していく。タカシとハルは「普通ではない」父娘なのだろうか? それとも「不幸を表に出さないで朗らかに生きようとしているたくましい」父娘なのだろうか? 知ったことか。そんな観念的な問いは今やどうでもよく、角田が「さわって」取り出すのは「単純」な事実、やっぱり触覚的な「ふれあい/ひと恋しさ」だ。「親子ならでは」とか余計な理由づけは不必要な、具体的で有難い交流・交歓なのである。----二人のサマー・ツアーは貧乏臭くってトラブルも耐えないが、そのダチみたいなやりとりはすごく楽しそうで、また幸福そうなのだ。 「ふれあい」とはまた「さびしさ」である。タカシとハルの父娘が一緒に歩く姿は強烈に「さびしい」。うらぶれているからではない。むしろこの「さびしさ」は彼らが楽しそうに「ふれあって」いるからこそ伝わってくる。 つまり触覚、誰かと誰かが「ふれあう」ことが世界をはじめて確固たるものとして実在させるのなら、それが世界の基礎だというなら、もっとも根源的な単位、その先にはもう「無」しかない孤独な単位は一ではなく実は二だ。----一人ではなくて、二人でいることが一番孤独で「さびしい」のである。 角田は二人でいることの奇蹟、その根源性、絶対性をよく知っている。だからこそ反対に、世界の中で一人で立つこと、一人でケツを拭くことの大切さも語られる。依存的な甘ったれはせっかくの奇蹟を台無しにするからだ。タカシはカルにこんなことを言う。「あんたがろくでもない大人になったとしても、それはあんたのせいだ。おれやおかあさんのせいじゃない」。----こうした激しい「きびしさ」もまた角田の持ち味だ。楽しさ(ふれあい)、叙情(さびしさ)、そして倫理(きびしさ)と三拍子そろった本書は、なるべく多くのガキに読んでもらいたい。(石川忠司)
中央公論1999/03
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