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子どもの私にとって夏休みは、奇妙な季節だった。読んだ物語の感想を書く宿題があるのだ。もちろん読後感がないわけではない。けれど何故それを書き、書くだけならまだしも、人に読まれ、評価されなければいけないのか、いくら考えても子どもの私には全く理解できなかった。「ひょっとしてこれは、我慢を覚えさせようとしているのだろうか?」とマジで考えたものだ。 本の中の物語世界に一度でもどっぷりと浸かった経験のある人なら誰でも判ると思うけれど、それはもう、自分と物語だけの蜜月で、こっちが話したくなるとき以外誰に知られたいと思うものでもない。その辺りの経験が全くない人たちが読書感想文なんぞというものを考えだしたのかもしれない。 子どもが物語に出会うためのメディアは私が子どものころはまだそんなになく、マンガがようやく週刊誌になり、TV持ってる家庭の子がそれだけで人気者だった時代。もっとも簡単に物語に触れられるのは図書館や貸本屋で借りたり、買ってもらったり、家に置いてある本だった。この辺りでかなり誤解が生じていると思うのだけれど、私のころの子どもがよく本を読んでいたとしたらそれは、身近で手に入れ易いメディアが本だったからだけだ。今の子どもなら、マンガもTVも溢れているし、15年前からはそれにTVゲームも加わった。本のシェアが落ちても何の不思議もないわけだ。 TVゲームよりずっと長い歴史を持つ本は、ローテクの極みみたいなもので、全然ユーザーフィレンドリィじゃない。書く側に身を置くようになってから嫌というほど実感するのは、どう書いても、どんなに書き換えても、言葉だけではどうしても書き表せない部分が物語には残ってしまうこと。たぶん物書きはそれを書くためというより、書けないんだということを確認するために書いているようなものだと思う。本に書かれた物語は、個々の読者の経験・体験と呼応してしか完結しないし、呼応して初めて成立することが出来る。読書とは、そうした部分を読み手それぞれが自身の経験や知識によって、積極的に埋めアレンジする作業なのだ。それは誰であれ、年が幾つであれ、同じ本を読みながら、それぞれなりの感想を抱くことを意味する。この、ローテクなメディアの面白さはまさにここにある。うまく呼応する物語と巡り会ったとき、読者はその物語の中に自分だけの世界を築くことができてしまうのだ。 例えば私という子どもは、「宝島」から「若草物語」、「鳴門秘帳」まで、おもしろい物語ならどんなものにでもどっぷりと浸り、そこに自分だけの世界を築いていた。そのおかげで、学校や家といった日頃から慣れ親しんでいるために見えなくなっていた世界を物語という別世界から眺めることができた。そうできると、学校での日々がシンドイとき、今でいえばゲーム世界のようにそれを眺めることでしのげたりするのだ。 だから、読書を宿題なんて形で子どもに強制するのは、意味のないことだし、読書嫌いを作ろうとしているようなものだ。もう少し言えば、それは読書なんかではない。 けれど、ひょっとしたら読書感想文は何も、読書好きの子どもを育てたいがために行われているのではないのかもしれない。そうではなく、読んだ物を感想という形で書ける能力を養うことに重点があるのかも。としたら、本を使わない方がいい。むしろ書くこととは違うメディア、例えばTVゲームの世界を書かせてみたらどうか? さて、読書感想文がつまらないものであっても、今年はもうそれが発令されてしまっている。それは書かなければならない。だったら、そのことで読書嫌いになるのはつまらなから、このゲームを楽しく乗り切るために私という子どもがやっていた方法を書いておこう。 読書感想文を書かせようとしている大人たちが、子どもである自分に、どんな感想文を書いて欲しがっているかを推理し、それに即して感想文を書くのだ。これは、そんなに難しいことではない。例えば、選書が面倒だからと感想文を課題図書で書くとすると、手始めに、何故この本が、中学生である私が読むに相応しいと大人は考えたかを推理する。そうすると、その物語の中でどこがお勉強になると選ぶ側は考えたのかなんて、すぐに判るはず。あとはだだもう、自分がどんな感想を抱いたかを教えるなんて勿体ないから、判った線で忠実に書けばいい。これで結構いい点をもらえるだろう。 だから子どもたち、どうか本きらいにならないように、そしてこの妙な宿題をうまくやり過ごせますように。 |
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