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この作品は三十六刷と版を重ねているのをみても多くの読者がいて、これを好ましく思っていることが分かる。私はこれがテレビで放映されていたとき見たことがあり、再放映が幾度もあったように記憶している。そしてその番組のタイトルの美しさにまずひきつけられた。それから、達者な演技をする可愛い子役達にも惹かれた。また、細くて美しい母親にも、その妹役の知的な雰囲気の女優にも魅力があると思った。脚本というものは、この場合だとテレビに映されて初めて完成したものになるのであるから、放映されたもので見ていくべきであろう。しかし役者の魅力や写真の美しさで、物語の内容を見落とすことがあると脚本を読んでつくづく実感した。この作品を始めから終わりまでテレビできちんと見ているわけではないが、これを見ていたとき、子どもたちの叔母雪子に疑問を感じたりしなかったのは事実である。この作品にはいくつも納得できないところがあったけれど、いちばん不可解な人物雪子についてだけ述べてみようと思う。 彼女は不倫の挙句離婚することになる姉令子に対して理解を示さない。むしろ姉に彼女の怒りを表したり、恥じたりしている様子で登場する。私はそれはそれでいいと思う。そういう考え方は世の常識を表しているのだから。そして雪子がそういうタイプの女性の役割を物語の中で果たすのならばである。しかし物語が展開するにつれて、雪子自身妻子ある男性と不倫の関係にあることが分かり、彼女はそれを精算するつもりで、富良野にいる義兄を頼るのである。彼女の不倫と令子の不倫はどう違うのだろうか。そして令子は自分のしたことで子どもを失い、世の中のルールを無視したことで厳罰に処せられているが、雪子の方は誰からもとがめられないのだ。そして彼女自身は令子を責めるという、ひどく身勝手な人間になっているが、作者はそのことに注意を払っているようには思えない。雪子はどうして姉を責めることができるのだろう。 雪子像というのはなんだか二つに引き裂かれているように思えて、本当によく分からない。どういう人間なんだよっ! 姉の不倫を責めるのは社会常識肯定派。でも自分の不倫は認める非常識派。姉の不足を補う彼女の母親的気づかいは、母と子のつながりを肯定、強調するジョーシキを表しているが、義兄と暮らすことにあまり疑問を持たないヒジョーシキはどう考えればいいのたろう。不倫相手にマフラーを編んで、彼の妻の目を盗んでも、それを届けようとする彼女の一途さ。でもつららの草太に対する一途な思いを汲み取ることはできないわからず屋。そして、つららが雪子に富良野から出ていって欲しいと言ったとき、「私には私の人生があるわ」「私がどこで暮らそうとーーひとからとやかくいわれることじゃないわ」と、突然のツッパリ。雪子の言っていることは勿論正しい。でもそれならば令子が結婚するといった時、何故彼女は恥ずかしがったんだろう。令子にだって令子の人生があり、人からとやかく言われることはないのだから。令子は彼女の恋愛を単なる不倫に終わらせず、結婚という形式が建設的というのならば、彼女は建設的に前向きに人生に向かっていたのであるから、恥じて もらわなくてもいいのではないかしら。本当に雪子って分からない。子どもたちの気持ちを思い、何かと彼らの心を支えているのだけれど、つららに対してはそうじゃない。彼女がトルコ(と書いている)で働いているのを知っていて、雪子は彼女に「・・・厳しいでしょ、都会のおつとめ」などと言う。これは無神経以外のなにものでもないんじゃない? 恋に破れて風俗営業に飛び込むつらら、男達を博愛的に愛するこごみなどはステレオタイプだけれど、人物づくりに破綻はない。この作家はふつうの女の人を書くのが得手じゃないのだろうか。一人の人間が新しかったり、古かったり、優しかったり、無神経だったりするのだけれど、雪子は作家のどんな意図を担っていたのだろう。(廉岡糸子)
児童文学評論 1991/03/01
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