「終わっていない状況」におかれること
-R・コーミアの自転車はとまらない-

島式子

           
         
         
         
         
         
         
     
 20年前、アメリカの児童文学の本にはめずらしく、酒落たジャケット装丁の一冊に出会った。それが一九七四年、パンテオン出版のハードカヴァー『チョコレート・ウォー』
である。大きな石畳状のアスファルトの広場を、小走りに走る少年と、長くのびる影、全体を照らすまぱゆい光線に満ちた画は、ロバート・コーミアのシーンの積み重ねによる作品から、なにかをうまく切り取ったものだった。それから3年後の77年、今度は『ぼくはチーズだ』(仮題) にぶつかった。本当に、読んだというよりガシンとぶっかったという感じで、その灰色の重さはいまも身体に、にぶく残っている。ジャケットの画(『チョコレート・ウォー』と同じく、ロバート・ヴィックレーによる)は、大きな耳の、ネズミのような少年が、固い台に腰掛けて、こちらをじっと見ている。それはまるで、呼ばれてもいないのに、病室(と仮に考えよう)に面会にいって、いぶかしげにみつめられているような、そんな不思議な冷たさに満ちていた。少年の背後は冷たい壁でふさがれ、そこには丸い、わっかの形をした針金に昔風の鍵がつるされている。暖かそうなものは、少年のセーターとコーデュロイのパンツだけだ。
「こんにちは、」はこういう時妙に明るくて、健康すぎることはのように思えるから、やっぱり、「やあ、」から切りだすものだろうか。ジャケットの表紙の少年は、“Hi"と感じよく返すに違いない。ちっともはにかまず、へらへら笑ってかわすでもなく、ごくあたリまえに、きちんと返してくるのだろう。そしてこう語りはじめる。

「ぼくは、いま、自転車に乗って、マサチューセッツ州、モーニュメントのルート31を走っている。これからヴァーモント州のルーテンバーグまでいくんだ。こうやってめちゃくちゃにぺダルをこいでいるのは、理由(わけ)あリなんだ。だってこの自転車には速度切替えがあるわけでなし、泥避けだってまともじゃないし、ブレーキもおそまつ、歪んだタイヤに、ハンドルの部分のゴムだってぼろぼろという始末だ。父さんが、ずっと昔に乗ってた例のじ・て・んしゃって代物だから。」

 風を切っているせいもあるだろうが、ずいぶん寒い自転車旅行のようだ。それでも「ぼくは、ぺダルをこぎ続けている。これからずっと踏み続けていくのだ。……」

 10月の朝、誰にしらせることなく、(恋人のエイミーにも)父さんの古い帽子をかぶって、ぼくは出発した。行き先はもちろん父さんのいる病院。プレゼントも用意してある。

 次の章に読み進む時にも、少年アダム・ファーマーの大きな耳とねずみのような顔と、ものいいたげなロ元は残っていく。(ちなみにこの本には章だての数字が示されない)そしていきなり、テープの記号が示され、日付が抹消されて二人の人間(AとTで示される)の尋問場面が展開される。一人はたしかに少年アダムで、もう一人は不明である少年は、記憶を三歳の夜にたどり、あの夜以来、一家が旅にでたことを思いだしている。この後この本の構成は、少年の自転車旅行(時制は現在と過去が巧みに織リ込まれているが、実はジャケットの表紙画の鍵をつるした針金のわっかのように、少年はぐるぐるまわっている。それは幼児のあどけない三輪車乗り、いつまでもおわらないメリーゴーランド、ゴールのない道程をよろよろ走る走者を思わせる)と明快で性急なゆえに不気味な尋問のテープ記録が、二本立てに並行して語られることになる。他の作品にも同じことがいえるだろうが、シーンの切り取りを鮮やかに見せながら、人物のひとリひとリを浮き彫リにすることに、コーミアはこだわリ続けていく。少年はぺダル踏みながら、父さんが昔よくうたっていたあの唄を大声でうたう。

 丘のうえに農夫(ファーマー)が一人 丘のうえの一軒家
 その農夫に妻がいて 丘のうえの一軒家
 その妻に子どもがいて 丘のうえの一軒家
 その子どもが犬をつれ 丘のうえの一軒家
 その犬が猫をとり 丘のうえの一軒家

 これは、まさにファーマー(農夫)一家のための唄であった。

丘のふもとに犬がいた。ぼくは犬が恐い。父さんと二人で森に逃げ込んだとき、犬に襲われたことがあったもの。


A:「あなたは医者? それとも精神分析家?」
T:「糸口がつかめそうか?」
A:「犬。犬が糸口です」
  保険代理店に勤めていた父さんと森で犬に襲われた。
  救けてくれた父さん。大好きだった。

 さっきからずっとエイミーに電話しているのに、どうしてもかからない。

T:「エイミーの話をしようか」
A:「恋人だよ。エイミーも糸口さ。あの子からの電話で、ぼくが以前住んでた町から来た支局員が、ぼくの名前を知らないってわかったんだから。その町にファーマーなんて姓の人はいないって」

 雷雨。例の唄をうたいながら走り続ける少年。

 このあと少年は、父さんの引き出しから二通の出生証明
書を見つけだしている。

 ぼくには二つの誕生日が?

 三人の野郎に囲まれた。

 電話がようやく通じた。「もしもし」エイミーの父親だ、
 違う? エイミーにつながっていない?

A:「灰色の男だ!」
T:「リラックスして薬をのんだらどう……」
A:「いやだ、薬はもういや」

 背後から車がおいあげてくる。ああ! 自転車から投げ出される。

A:「灰色の男は一カ月に二、三度はやってきた。地下室で一時間かそこら父さんと話してゆくんだ。灰色っていうのはその男の髪の毛の色。グレイってなんにも色がないみたい。……名前はトムソン。ぼくは盗み聞きだけではたえられなくなって、父さんにつっこんで尋ねた。灰色の男はいったい誰?」

 ぼくらはバスに乗って逃げていた。そこで父さんはなにもかも話してくれた。父さんの本当の名前はアンソニー・デルモンテ。ぼくはポール・デルモンテ。ニューヨーク近郊の小さな町で新聞社の報道員だった父さん。イタリア系のお祖父さんが住みついたその町で、父さんは政治部記者として活躍した。母さんは敬虔なカトリック教徒。二人は愛し合ってぼくが生まれた。それが一気にひっくリかえったのは、父さんが連邦政府を揺るがす機密情報を握ったその日から。……ぼくらの生活に灰色の男が入リこんだのはこの時からだった。再身分証明登録部。新しい身分証明書を獲得した人間を擁護する役目と称して。ぼくの誕生日が変更させられたのも。父さんはイタリア人、母さんはアイルランド人なのにアメリカ人にかえられ、宗教までもカトリックからプロテスタントへ!

T:「お父さんは当時の情報証言についての事実を、果たしてその灰色の男に話したことがあったかな」
  9秒間中断。
T:「どうした? 黙り込んで。変な目つきで見ているね」
A:「逆さ。あんたがぼくを見る目つきのほうが、気持ち悪いよ。父さんがいってた。灰色の男の顔つきを見ていると、寒気がするってね……」

 この男はいったい誰なんだろう。医者じゃない。敵か。いや救けてくれているんだ。だけど情報については用心が肝心だ……。

 寒くて、暗い。親子づれを見ると悲しい。猛スピードで走る。

A:「あなたはいったい誰? 精神分析家でもなさそうだ。あの情報について知リたがっていることは図星だ」

 母さんは震えていた。父さんの帰宅をまって、ぼくたちはすぐに家をでた。

 モーテルに着いた。中は真っ暗。去年とはえらい違いだ。エイミーに電話をかける。「エイミーなんて名の子はうちにはいない。さっきのガキだな。いないっていってるだろ」「おかしいな。確かにマサチューセッツ、モーニュメントの537-3331でしょ」(この番号がコーミエの家の電話であることは有名で、一九九一年の夏、まだ電話はかかってきますか、の質問に、ええ、まだかかりますよとコーミエはこたえていた)「番号案内ですが」「モーニュメントのへルツという人の番号を」「モーニュメントにへルツさんという方は見あたりませんが……」「いつからあのモーテルはしまっているんですか?」「さあ、ここ二、三年はずっと」「去年の夏は開いていたでしょう? そうですよね?」「大丈夫ですか、気をつけて……」
 ぼくは叫び声をあげながら通リを横切り、父さんと母さんと三人でとまった場所へ向かった。口を大きく開けたまま、ぼくは絶叫しつづけていたのだと思う。

 父さんはうたいはじめた。母さんもぼくも音程がすこしはずれていたが、続けた。

 丘のうえに農夫が一人 丘のうえの一軒家
 その農夫に妻がいて 丘のうえの一軒家

 モーテルは居心地がよかった。熟睡して出発したぼくらの車に、影のように追ってくる車。ドライブ疲れをとっていたぼくらの背後に、突然カーヴを切って車が現れ、三人を薙ぎ倒した。「ギャー!」

T:「そこでとまらないで、話してしまいなさい」
   5秒間中断

 宙を見つめた母さんの瞳。死んでる。「逃げたぞ。走ってゆく」父さん、逃げろ。その時、やつが近づいてきた。

T:「それはいったい誰だった?……」
  5秒間中断
「引っ込んじゃだめだ。答えなくては」
  5秒経過
「答えられる? 返答できるようなら手をあげて」
  30秒経過
「返答なし」

 角を曲がるとそこはぼくの目的地、ルーテンバーグだった。
 朝のひんやリした空気の中をぺダルを踏んでスムーズに進む。そこはまるで、SFばリの大虐殺にあったかのように、人っこひとりいない町だった。そしていま、ぼくはぼくの存在の一部でもあり、そのために生まれてきたような、そんな気持ちで自転車をこいでいる。角をまがるとそこは病院だ。先生(医者)が待っていてくれた。白髪頭、大柄でロ髭をはやした、やわらかい声のやさしい先生。丘の上の病棟にむかって歩いている先生とぼくに、声をかけるやつもいる。「ここは施設じゃなくて、家庭のようなもの」先生の声に耳をかたむけながら、最上階まで昇るとぼくの部屋がある。ここが好きではないのだけれど、「自転車乗り」でくたびれはてていたから、部屋にもどるのはうれしい。お薬をもらって、リラックスしてから、ぼくは尋ねた。「父さんは死んだの?」ぼくには母さんが死んだことはわかっていた。でももし父さんがどこかで、怪我をして、ぼくのやってくるのを待っていたりしたら? ぼくが父さんの話をすると先生は哀しそうで、それでぼくには父さんがやっぱり死んだってことがわかる。それでぽくはあの唄をうたう。お薬が効いてきた。あの部屋で尋問されることもない。
 いますぐには。
 猫はネズミをとる、
 猫はネズミをとる、
 先生から手渡されたぬいぐるみを手に、父さんのジャケットと帽子を身につけて、ぼくはもう哀しくもなんともない。
 父さんも母さんも死んでしまったのだ。
 ぼくはうたい続ける、
 チーズは独りぼっち、
 チーズは独りぼっち、
「すこし休んだら、もう大丈夫だよ、ポ-ル」
 この人はいったい誰に話しかけているのだろう。ポール?
ぼくはポールじゃない。けど、いまはうたうのにいそがしい。ぼくには自分が誰なのか、ちゃんとわかっている。ぼくはチーズだ。

 このあと、もう一度テープ録音の場面が一章つづき、最後に冒頭の文章が繰り返される。

 ぼくは、いま、自転車に乗って、マサチューセッツ州、モーニュメントのルート31を走っている。これからヴァーモント州のルーテンバーグまでいくんだ。こうやってめちゃくちゃにぺダルをこいでいるのは、理由(わけ)あリなんだ。だってこの自転車には速度切替えがあるわけでなし、泥避けだってまともじゃないし…(中略)でもぼくは、ぺダルをこぎ続けている。ぺダルを踏み続けているのだ。

 この部分にいたって、ようやく、『ぼくはチーズだ』のプロットを長々とつらねた理由のようなことが話せるように思う。ジャケットの表紙画の冷たい部屋は、どうやら精神病棟の一部屋だろう。少年は角をまがリ、角をまがリしたつもリで、実はぐるぐる自転車に乗って、病院の庭を廻り続け、その妄想の旅の「今日」を終えたにすぎない。またすぐに、自転車に乗らなくてはならない、きっと乗ることになるだろうと、少年はどこか裂けてしまった内なる声にゆさぶられている。これが「エンド」で、これが始まりである。それではどこへ向かって出発するのか? ラストにむかうとすれば、それはいったいどこなのか? それでは始まりに向かって……。あの唄を繰り返し、繰り返しうたいながら。
 この、何か終わっていないような感じがするということを、エンディングに関する難しい理論(があるのか、ないのか?)で完結しようとするのは、ナンセンスな気がする。終わっていないような感じというのは、ある状況、この場合にはコーミアのつくりあげた小説の中から抜けきれないということてある。本を最後のぺージまで読み終えたのに、小説が終わっていない。それが我々の心や、ときには(最初ににぶい重さとなって身体が覚えていると書いたが)身体にまで残される傷なのかもしれない。逆にいえば作者は、自分の小説の「終わっていない状況」に読者を無法にもほったらかすのではないか。また、作者も小説をかきながら、自分の中に潜むこだわり-現実の生活は完結するものではないが、自分の小説は完結できる-がゆらいでくることがありはしないのだろうか。
 コーミアは社会派の作家だ、という声がある。社会派がこんなにおもしろければ、それもいいがと思いながら、コーミアの魅力は現在を生きていることに尽きる。バスに乗る。保育園、幼稚園の送迎バスを見る。テロ、ハイジャックの事件を読む。楽園と地獄が見える。「調和のとれた若者」が裏切ってどうする? テロリストを可愛いと思ってどうなる?
 この各シ-ンの積み重ねが美しいほどに、みごとな『ぼくが死んだ朝』のラストでは、こどもや女が殺されるのに、テロリストが生きていて、しかも小説はまだ終わっていない感じがする。「これらのシーンから、どれを削って、そのかわリにあれを入れるなんてことができるか」。当時『チョコレート・ウォー』に対して吹き荒れそうだった検閲を、意に介さない編集者がいた。彼もバスに乗リ、腹立たしくテロ事件を読み、人を愛するごく普通の人間だったが、すぐれた編集人だった。コーミアが、終わらない小説を書いて文学の状況のただ中に、我々を置き去りにしようとすることに手をかしたわけである。
 コーミアが「ぼくは(自分の作品の中の)若者がどう挫折しようと、そんなことに関心がなくて、むしろどう書くかってことだけが気になっている」と話しているのは、彼の小説が、エモーショナルな書き方にならないということをよく表している。コーミアにもレイモンド・カーヴアーにも同じようなことがいえるが、二人はカーヴァーの描くところの「ささやかだけれど、役にたつこと」に代表される「ささいなこと」「小さいものへの愛情」を、決してエモーショナルにならずに、客観的に、カメラをまわしてとらえているだけといったクールさで作品のシーンをつみあげることができる。しかし、テーマは大きく、広がりをもっていて、実際アメリカを語ろうとすれば忘れることのできない、「無垢と孤独と暴力と死」はかならずその背骨をささえている。
 先に、現実の生活は完結するものではないが、自分の小説は完結できるように作家は思っている-それがゆらぐのではないか、と書いた。コーミアとその作品を語る時、宗教についてはあまりふれられないし、いくつかのインタヴューや、評論を読んだが核心をつくものには出会えなかった。それはそれでよいのだが、今回コーミアの作品を繰リ返し読むうちに、この宗教についてのコーミアの不完結の苦しさを、何箇所か垣間見るおもいがする。まず『ぼくはチーズだ』の中の一場面である。「……(母さんの)宗教までもカトリックなのにプロテスタントにかえられてしまって……」。前後するがコーミアは『チョコレート・ウォー』でカトリックの学校を描き、11年を経てもう一度同じカトリックの学校を舞台に『果てしなき反抗』を書いている。その後『フェイド』では自慰もセックスも司祭への「告白」とロザリオの祈りで通過する少年を描き、一九九○年の『わたしたちの鳴らす鐘』でいま一度、ユニテリアン派の教会に通う(宗教意識のうすい)プロテスタントの少女に、カトリックの「濃い」少女をぶつけて、「いまよuあんたはカトリック教徒です」などといわせている。こうしたことを例にあげ たのは、宗教上の問題を論じるためではなくて、作家がある作品の中で完結しないことを、他の作品の中で、接続してゆく形で開いてゆくのではないかといいたかったからである。すくなくともコーミアの中では、カトリックであることの意味を問うことが常に現在進行形でなざれているのではないだろうか。それはアメリカの中で、カトリックであること、小さい私立の学校、生徒の小さな秘密組織、組織の中で一人異なった有り様であることにつらなってゆく。それが背後には暴力とか体制、孤独、罪など大きなテーマをひきずっていることも見逃せない。コーミアはささいなことでも個人にこだわることが、実は巨大なものを見据える術であることを示してきた。
 『果てしなき反抗』では、個々人のささいな「気配」のよみとリが、圧倒的な真実味をおびてじわじわと全編を支配している。それはコーミアに11年もの歳月をかけさせるに足る内容となって、『チョコレート・ウォー』の終わらないエンディングを継承した。この恐ろしくも終わらない小説的状況に置き去りにされると、その時、その時の気配と感じと思いを反芻しながら、(文学の)深い傷を見つめ続けることになる。「教師は無知の罪を、生徒は無視の罪を恥じてうなだれるべきだ」と訓辞をたれる学院長リオンの左頬に、トマトが直撃するシーンから、目をそらさないことになる。
 コーミアは児童文学の作家の中で、おそらくいちばんといっていいほど多くの「死」を描く作家であろう。自死も殺人も含めて、彼はさまざまな死とむきあっている。ただコーミアは、「死」を本というかぎられたスぺースの中で、単なる結末としては描いていないように思う。
 彼は登場人物の運命とその悲劇性に徹底してこだわリ、各々に光をあて続ける。そうしてこそ人間の存在の意味についても話せるかもしれない、と彼は常に進行形で考えているのではないか。陽のさすアスファルトの広場を、うつむきかげんで小走リに走る少年(明日にはリング上で血塗れになるかもしれないし、家にかえったらギロチンづくリに精出すのやら、寝ても醒めても自死することばかリ思い詰めているのやら、また叔父さんと同じくフェィド(姿を消す)できる能力を恐怖してふるえているやもしれない存在)にもコーミアは「ことば」を持って語りかけることができる。またそのためにも、彼は冷たい病室の椅子に腰掛けて、たんたんと自分を語る少年の終わリのない「お話」や、繰り返される唄に耳をかたむけ続けるのであろう。

 ・この小論に拙文「コーミエとヒントンを結ぶ線」『児童文学1984』(メリーゴーランド発行、1984年)の一部加筆した部分を、使用していることをお断わりします。
 参考にした本のタイトルと出版社名
“The Chocolate War"Pan the on Books
(A Division of Random House)
``I am the Cheese"Pantheon Books
(A Division of RandomHouse)
『チョコレ-ト・ウォ-』 扶桑社ミステリ-
『ぼくが死んだ朝』 扶桑社ミステリー
『果てしなき反抗』 扶桑社ミステリー
『わたしたちの鳴らす鐘』 ほるぷ出版
『フェイド』 扶桑社ミステリー