子ども観の戦後史

野本三吉 現代書館 1999

           
         
         
         
         
         
         
     
 子どもをめぐる様々な事件が報道されるたびに、現代社会における子どもその ものの変容がセンセーショナルに取りざたされる。しかしそれは、高度資本主義 社会の中で変貌する子どもの世界を、理解しがたいものとして対象化することに よって何がしかの了解点を探ろうとする大人の悪あがきに過ぎないのではないか。子どもが特殊に変容したのではなく、現代社会全体の急速な変化が子どもの世界にも浸潤し、象徴的に現象してきていると見た方がよい。「子どもが変わった」と特化し強調するよりも、問われるべきは近代が構築してきた「子ども観」なのであり、「子ども観」そのものが大きく改変を迫られているのだ。既にそういった問題意識から、「近代子ども観」の見直しや新しい「子ども観」創出へのアプローチが始められている。本田和子の『変貌する子ども世界』(中公新書)は、戦後文化と子どもとのかかわりの中から新しい「子ども観」と「子ども―大人」関係を探り、相次ぐ暴力表現も彼ら自身からの新しい「子ども観」確立への要請ではないかと述べている。筆者もまた、季刊雑誌『子どもプラス』(雲母書房)」で、同様な問題意識から「描かれた子どもたち―近代子ども観の変遷」を創刊号から連載を始めた。
 本書は、『戦後児童生活史』『近代日本児童生活史序説』をまとめた著者による、大人は子どもをどのように見てきたのかという視点からの「子ども論」へのアプローチであり、また著者の言葉を借りると、「児童思想史」つまり「児童観の変遷史」でもある。この発想は、早世した児童文学者の乙骨淑子が一九六〇年代に発表した「日本児童思想史序説」の問題提起や、山中恒が膨大な資料を駆使してまとめた『ボクラ少国民』シリーズの視点を継承するものでもあると著者はいう。
 「戦争」と「原爆」を思想的な原点と再認識する著者は、長田新の『原爆の子』や永井隆の『この子を残して』、佐野美津男の『浮浪児の栄光』から子どもたちの戦後体験を著者自身のそれと重ね合わせて、アリエスの『〈子供〉の誕生』など子ども期の発見と消滅をたどり、大塚英志の『少女民俗学』などを経て、今日のいじめや学級崩壊現象に至るまで、戦後五〇余年にわたる「子ども論」やその思想をつぶさに検証する。まさに同時代を子どもを見つめながら、その時々の「子ども論」と格闘してきた著者ならではの「児童思想史」というべき力作である。佐野美津男の未完の「子ども学」構想への道程から、「子どもは一切の保護から脱却することによって新しい階級を形成することができる」という佐野固有の思想を再構築して、「子どもは保護育成され教育されるべき受け身で依存的な存在ではなく、独自の世界観と判断力をもち、社会を構成する一員として能動的に生きる存在であると認識することが大人に求めれれている」という著者の視点は鋭く、既成の「子ども観」を痛打する。また、「大きな社会構造の変化、人間関係の変質の中で、ぼくらは、あるいは人間はどこへ向かおうとしてい るのか。実はこの問いが見えてこない限り、現代の子ども像も、子ども観も、確かな手応えで掴むことはできない」とも著者は述べる。「子ども観」の戦後史をたどりながら、「子ども」を機軸に現代の抱える諸問題をもあぶり出し、「子どもという思想」を屹立させ、なかなか刺激的な大作である。(野上 暁
読書人1999/12