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動物は、人間のように意地悪をしたり裏切ったりしない。だから動物の方が好きだという子供たちも多いのではないだろうか。ここに取り上げた二作品はいずれも、不幸な生い立ちから人間に心を閉ざした少年が動物とふれあうことによって心を開いていく物語である。 『子ギツネたちのゆくえ』のビリーは、カーネーションにくるまれて警察に届けられた赤ん坊。何人もの里親に預けられるうちに、ビリーは「自分がまったくひとりぼっちで、世の中でだれにも必要とされていないのだ」と思いこむ。そんなビリーに初めて友だちができる。いたずらっ子たちから命を救ってやった白鳥と母親をなくした子ギツネたちである。ビリーは生まれて初めて、愛することと必要とされることの喜びを知る。 しかし、大事な子ギツネたちは町の人たちにみつかり殺されてしまう。生き残った一匹をつれ、ビリーは里親の家を飛び出す。ビリーと子ギツネは、船で川を航行し白鳥たちの保護をしているジョーおじさんに救われる。おじさんは、二匹の「子ギツネたちのゆくえ」を案じる。ジョーおじさんの配慮によって、子ギツネは自然へ、ビリーはおじさんの養子となって無事人間社会へ帰る。 子ギツネたちのために夢中になってコンビーフと粉ミルクを手にいれてくるビリー、子ギツネたちの死を知ったビリーの悲しみ、ビリーと子ギツネの逃避行など、ビリーの気持ちや子ギツネたちの生態が生き生きと描かれて、読者は引きこまれていく。しかし作品が真の動物物語に成り得るかどうかは、ビリーと子ギツネの行方如何である。作者はジョーおじさんという人物を登場させて、両方とも見事に結末をつけている。特に子ギツネを自然へ帰すため、ビリーに空へ向かって銃を打たせる場面は感動的である。死んだ息子の生まれ変わりとしておじさんがビリーを引き取るという結末は甘すぎるかもしれない。だがビリーにとってこれ以上の幸せは考えられない。 また、命を助けられた白鳥が影のようにビリーに付き添いビリーの幸せを見届けるのだが、これはビリーを見守る作者の目であろう。イギリスの新進作家による暖かい動物物語である。 『少年と白鳥』は『マリアンヌのゆめ』などでおなじみのベテラン作家キャサリン・ストーの作品である。少年は海辺の村でおばあさんと暮らしている。でもおばあさんとのつながりははっきりせず、少年は「ひとりぼっちがすきで、自分の心をほかの人にあかさない」 ある日、少年は二羽の白鳥をみつける。二羽はつがいで、巣を作り卵をだく。しかし卵がかえる前に、釣りの重りの毒で親鳥は死んでしまう。少年は親鳥に代わって卵をかえし雛を育てる。自分だけのひみつの沼で心ゆくまで白鳥の子を見守った夏休みは、少年にとって最高の日々だった。 秋になっておばあさんが倒れ、少年は子どもの家に入れられる。少年は子どもの家になじめない。おばあさんが死んでも、少年は悲しまなかった。少年は子どもの家で白鳥の子を飼いたいと言い出す。つれに行った少年が沼で見たのは、雄の白鳥と一緒で幸せそうな白鳥の子の姿だった。少年は白鳥の子に別れを告げる。その後すぐ、少年が「白鳥の湖」の本を読みながら願ったように、少年のお母さんがみつかる。 こどもの内面を描くのがうまいストーの手になるだけあって、少年と白鳥の子の交流を通して少年の寂しさ、怒り、悲しみなどが読者の胸に迫ってくる。この作品は『子ギツネたちのゆくえ』のようにドラマチックな筋立てではないが、海辺の村の自然がそのまま伝わってくるような静かで詩的な雰囲気に満ちている。少年に固有の名前がないのも、かえって詩的広がりを感じさせる。少年がお母さんに大切な白鳥を見せる最後の場面は、いつまでも読者の心に残るに違いない。さわやかな動物物語である。ただ、おばあさんの冷たい態度がもうひとつ納得できない点が残念である。 『子ギツネたちのゆくえ』が書かれたのが今から四年前、『少年と白鳥』は昨年である。このような動物物語が今日のイギリスで書かれたというのは、ビリーや少年のような立場の子供たちがそれだけ多いということだろう。振り返って日本を考えた場合は、もっとひどい状況が浮かんでくる。わが国では受験勉強に追われ没個性的教育が幅を利かせるなかで、心を閉ざす子供たちが増えている。人間に背を向けた子供たちも、ビリーたちのように動物になら心を開くかも知れない。しかしペットを飼うことも難しくなっている都会では、その機会すら子供たちは奪われているのである。ビリーや少年の幸せに酔った後だけになんともやりきれない気持ちにさせられる。(森恵子) 図書新聞 1988年6月25日 |
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