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「何という作品か!」驚嘆とショックと感動がない交ぜになったこの言葉が、上下二巻の長いこの作品を読み終えて最初に私の口から出た。アメリカの高校生がドラッグやクスリにこれほど汚染されているのかと愕然とし、セックスにこんなに開けっ広げなのかと日本との違いを考えさせられた。しかし、「日本でこんなことはあるまい」と私が思うのは、きっといろいろな現実を知らないからだ。隠された闇の部分では、ディーニーのように強く生きることが不可能な子どもたちは大勢いるのだろう。とにかく、アメリカの闇の部分に直面した高校生たちを真綿にくるまず、過酷な現実と戦わせた作者の手腕に敬服する。 原題は「One on One 。バスケットボールの練習のなかには「3 on 1」「1 on 1」で行なうゲームがある。「1 on 1」が1対1で行なうプレイだとすれば、この題の意味は、主人公サムとディーニーがグリーンズパークアカデミーの男女両チームの同時、州チャンピオンを目指して「1 on 1」で頑張ったという意味なのかと思える。しかし、それだけではこの本の題名として物足りない。2人は青春というコートで「One on One (付きっきりで何かを教えたり、世話したりすること)を行なったという思いが強くする。つまり、不幸ですさまじい境遇にあり人間不信の塊のようなディーニーを、サム以外の誰が救えたか、ということなのである。ディーニーの父親は何年も前に蒸発し、母親はアルコール中毒で我が子の手に煙草の火を押しつける人間である。そして母親の同居人トニーはディーニーに性的虐待を繰り返す人でなしだ。 ディーニーは食事もろくに与えられず、ただバスケットボールをしたいが為に高校へ毎日行き、セックスの代償で手に入れたドラッグや煙草を吸って現実の辛さをごまかしている。彼女のいでたちがまたびっくりである。頭はつるつるのスキンヘッド、身体には刺青、鼻にはノーズリング、そしてそのリングから耳につけた5つのピアスにむかって5本の鎖がつながっている。これで高校生か、と本を読んだときは思い、アメリカと日本は違うという感じが強かった。しかし、この前、『学校へ行こう』とかいう某テレビ番組の中で、見るからに不良のいでたちの高校生を普通の高校生の姿に戻すというのがあり、鼻や耳に穴を開け、お互いに鎖で結んでいる3人の男子高校生が写った。日本でも若者のファッション感覚は、私のようなおばさんには理解し難いものになっている。要は、何故そのような目立つ格好をするのかである。 その3人の高校生についての心理は分からないが、ディーニーの場合は明らかに、自分を取り巻く状況に対する怒りと、自分は自分だという証を他人と違うファッションで表わしていると思われる。それは無意識のSOSだったのかもしれないが、周囲の高校生たちは、彼女の異様ないでたちや、野卑な言動から、彼女をミュータント「突然変異体」と呼んで憚らないのである。友達など一人もいなかった。助けてくれる者も親を含め誰もいなかった。麻薬常用者であり売人のJ・Cという男子生徒から避妊薬をもらうだけの為にセックスをし、母親のボーイフレンドから性的虐待を受け、殆ど食べ物ももらえず学校で残飯入れをあさっている。自分の持ち物の少しばかりのぼろきれをかき集めて自分のファッションにし、厳寒のアメリカ、メイン州の雪道を何時間もかけてバスケットをするために学校へ通う。これがサムを意識する前の彼女の毎日であった。このような最低、最悪の状況に一人で立ち向かう姿が彼女のスキンヘッドや鎖だったのだ。 ディーニーはサムに会うまで、人を愛するという意味がわからなかったに違いない。サムを挑発してセックスをし、サムより優位に立って支配し、利用してやろうと思っていた。下巻P16には「名前と年令はごまかそう。親の承諾をもらうと称して、電話なんかされちゃたまらないから。サムゴッドはやりたくてたまらないんだ。だから、金は彼に支払わせればいい。」という彼女の心理が描かれる。また彼女はセックスについて経験がありながら、非常に貧しい否定的な考えしかできなかった。「あたしの知っているかぎり、女がセックスから得るものは少しばかり快い緊張感くらいのものだ。ほかにも赤ん坊を手に入れることもあるし、赤ん坊ができないようにしなきゃという心配を抱え込むこともある。もちろん、悪い評判をもらうこともある。こっちがからだを開いてやるまえに、させてほしいとせがんだ分だけ、いったんやらせたあとはそれに腹を立てたような顔をする男たちが、悪い評判をばらまくわけだ。たぶん、男は女がいくことなんか期待してないんだ。女がいったときにはそれを期待していたふりをしてみせるだけで。セックスというのは、男が女にしたいことをできるんだということ を確認する方法にすぎないんだ。だから、やり方がひどければひどいだけいいんだ。」(上巻P348〜P349)何という人間不信だろう。彼女にとってセックスは、愛の行為ではなく、男が女を支配する主従関係を確認する方法に過ぎなかったのである。ところが、サムと初めてセックスをした時、ディーニーはサムを支配した勝利感を味わいたかったが、サムに屈服したというむなしさと敗北感から泣きじゃくるのである。彼女はサムによって初めて愛されたのだった。本来、愛され愛するという事に主従の関係はなく、セックスが慈しむ愛の最も素晴らしい表現だと、彼女は気づいていくのである。 では、何故サムのような真面目なスーパースターがディーニーに惹かれていったか。ウッズ巡査部長に、「近づくんじゃないぞ、いいな。危険を冒すほどの値打ちはない。」(上巻P192)と注意され、サムは、「罠だ。あんなやつにかかわると、溺れて死んでしまう。」(上巻P198)と、自分自身を引き止めようと思いながら、どんどん彼女に惹かれていくのである。その心理の奥には捨て難い姉への思いがあった。このような伏線が、主人公たちの人間関係に厚みを作り、よりリアリティを引き出している。 サムの姉カレンは、男にもてあそばれ、父のリューベンが更生施設に入れたが施設を抜け出し、酒やドラッグに溺れ、家にもほとんど顔を見せない。サムにはディーニーとカレンが重なって見える。家での夕食にディーニーを連れてこられれば、姉貴だって家に連れ戻せるはずだと思うのである。サムが17才という事を考えれば、彼の背負うものはあまりに大きすぎる。ディーニーの支えとなり、両親の離婚、父の再婚、父のカレンへの思い、それらを全て受け止め、自分に嘘をつかず生きていくには余りに若すぎる年令だ。 このあたりにアメリカと日本の大きな精神的隔たりを感じる。アメリカには子どものための居場所がないのだ、という人がいる。(片岡義男著『彼女と語るために僕が選んだ7つの小説』P81)「建国を経験したアメリカの子どもたちは、出来るだけ早くに、他と確実に違った個人として、効率よく大人になっていかなければならない運命なので、子どもが子どもとしてそのまま存在できる場所がない。自分の手で切り開くほかなく、自分も他人もそうだから、グッド・ラックという言い方が成立する」というのだ。・・・なるほど、と思う。サムやディーニーに比べれば、日本の子どもたちはぬるま湯につかっている。 そして、あの陰惨な事件が起こる。 J・Cとトニーがディーニーにサムとの仲を問いつめ、トニーが逆上し、ディーニーが鎖を振り回してしまう。トニーは片目を失くし、ディーニーの顔には鎖がめり込み、左半分が崩れてしまう重症となる。 この作者はショッキングなことが好きなようだ。それは読者の想像を容易に越え、突如として出てくる。私などは、目をそむけたくなりながらも作品に引き込まれ、、活字を追わざるをえない状態が何度もあった。 この陰惨な事件の後、初めて校長や警察など回りの大人たちが彼女の成育環境や状況を知り、福祉局が里親探しを始める。しかし、ディーニーとサムは他人の大人たちの介在を許さない。結局ディーニーはサムの家に引き取られるのである。福祉局など公共施設が一人の人間を本当に救えるのかという問いに対して、その人を本当に愛する人間が一人現われるだけで充分、「One on One となることだけが救いになる、とでも言っているかのようだ。そして、二人の「One on One によって夢のような男女両チーム、同時、州チャンピオンが決定する。しかし、作者はこれだけでは終らせない。まさにこの後、トニーがディーニーの母を撲殺し、ディーニーにも手を延ばしてくるのである。そして、あれほど愛したバスケットができない身体になってまで、彼女を救ったのはサムであった。 私が一番印象深く読んだのは、サムと父リューベンの心のぶつかりあいである。 「父さんこそ何にも分かってないんだよ。ディーニーにはおれが必要なんだ。それもいま必要なんだよ。おれが愛してやらなかったら、彼女はこの先も誰にも愛してもらえないと思ってしまうー誰も愛せなくなってしまうんだ、顔のせいで」 リューベンは長いこと(・・・省略・・・)黙りこくっている。 「ああ、サム」とリューベンがいう。その口調には途方もなく大きな悲しみがこめられている。 こいつはあの子を愛しているんだ、とリューベンは思う。そこまでいうのは、と。それはそれでいいのかもしれない。もしあの子の人生に、無条件の愛情ーたとえ一時の情熱にすぎないとしてもーが必要なときがあるとしたら、あるいはそれはいまなのかもしれない。(下巻P231) 父として、息子の行く末を心配し押し潰されそうになりながら、息子を誰よりも理解している。いい父親だ。 また、何度も繰り返される言葉があり、私は非常に気になった。「これはディスコじゃないんだぜ。これは遊びじゃないんだぜ。」初めは体育館から流れる曲の歌詞だったが、試合のたびに、サムとディーニーの間で交わされ合言葉のようになっていく。最後は、ディーニーを助けようと10m上からトニーにむかって落下したサムに、ディーニーがショック状態の中で言うのである。 大人から見れば、はかげていて遊んでいるような若者の行動、未熟で早とちりな礼儀知らずの行動の奥に、遊びではない若者の一途な生きようとするエネルギーがある。 サムもディーニーも一生懸命、高校時代を生きたのだった。結果としては、サムはスーパースターの将来の夢を捨てる可能性が高く、見ようによっては、人生を棒に振ったような印象も受けるかもしれない。 しかし、本人たちは、互いに生涯のパートナーとなることを自覚し、生きるのに大切なものはもう手に入れてしまったのである。彼らに怖いものはもう何もない。ディーニーにとってサムは本当にゴッド(神)となった。 「あの二人、どうなるのかしら?」(・・・省略・・・) 「二人一緒にすごく立派な大人に成長することもあるわ。どうなるかなんて、誰にもわかりゃしないわよ」(下巻P400) という教師同士の会話で物語は終る。そうだ。結婚するかしないか、うまくいくかいかないか、そんなことはどうでもいい。青春期に自分に正直に行動して、この上なく素晴らしい愛を手に入れ、支えあえるパートナーを見つけた。それが今を生きる強さになっている。それ以上、生きる上で必要なものがあるだろうか? ・・・・・・・・・・ この本のセックスの描写は露骨で、中学生の我が娘に薦めるのは躊躇するぐらいだ。しかし、この本の素晴らしい点はセックスを興味本位でなく、愛の表現として深く真面目に考えている点にある。刺激は強すぎるが、私に勇気が出れば、子どもの机の上にそっと置いておこうと思う。(千葉綾子)
たんぽぽ2000/04/01
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