子どもを喰う世界

ピーター・リーライト


さくまゆみこ、くぼたのぞみ訳 晶文社


           
         
         
         
         
         
         
         
    
 グルメなんていう言葉さえも手垢にまみれ、飽食の時代だ過食だなどとノーテンキなことを言っていられる世紀末のニッポン。痩せたい一心で、一本六千円もするディオールの「スヴェルト」なる化粧品を求めようと、発売日にデパートに行列までできるのだから、もうビックリするやら呆れるやら。
 そんな時代だからなのだろうか。世界の飢餓線上を彷徨い、舌と胃袋でもって人々の食う行為を鮮列にドキュメントした、芥川賞作家辺見庸の『もの食う人ぴと』が、重いテーマのわりに結構よく読まれている。その中のエピソードで、ぼくにとって最も衝撃的だったのは、なんといってもフィリピンのミンダナオ島の残留日本兵による人肉食事件だ。「母も妹も食われました」「私の祖父も日本兵に食われてしまいました」「棒に豚のようにくくりつけられて連れていかれ、食べられてしまいました」このように、「食われた」という受け身の動詞が、著者の取材ノートにたちまち十個も並んだと言う。
 人肉食については、大岡昇平の『野火』や、武田泰淳の『ひかりごけ』にも描かれ、原一男の映画『ゆきゆきて、神軍』でも主人公の奥崎謙三によって執拗に追求されている。しかしそれらとは違って、『もの食う人びと』に登場した老人は、「私もあれを食べてしまったのだよ」と、平然と言ってのける。一九四七年、残留日本兵掃討作戦に参加して、日本兵を七人殺したというその老人は、著者をその現場に案内しながら、自分も人肉を食べたと言い、それは若い犬の肉のような味だったと悪びれもせずにサラッと言うのだ。これには正直に言ってビックリした。ところが、こんなことでビックリしてばかりはいられない。
 イギリスのテレビ・ドキュメンタリーのプロデューサー、ピーター・リーライトの取材による『子どもを喰う世界』(さくまゆみこ、くぼたのぞみ訳 晶文社)を読むと、人肉食とは関係ないものの、これまで断片的にしか伝わってこなかった、世界各地での子ども虐待の衝撃的な事実が次々と明らかにされていく。原題は『CHILD SLAVES』だから、直訳すると『子ども奴隷』ということになるのだろう。しかし、ここで描かれているような小さな子どもたちを、まるで喰いものにして成り立っている、豊かな消費社会の実態を対比的に考えると、『子どもを喰う世界』というタイトルは悪くない。カバーに使われている、ゴヤの『わが子を喰らうサトゥルヌス』の絵のあしらいも象徴的だ。
 著者は、インド、バングラデシュ、マレーシア、タイ、フィリピンなど十か国を取材し、それぞれの裏社会にも潜入しながら、過酷な強制労働を強いられている子どもたちの実態に迫る。インドでは、摂氏五十度を超える真鍮工揚の溶鉱炉の前で、八歳のときから働いているムスタファ少年に会う。もちろん学校など行ったことがないから、文字の読み書きも計算もできない。過酷で危険な仕事で、一日にたった三ルピー(一ルピー約九円)しか貰えないが、それでもなんとか食べていかれるという。
 安いカーぺットは機械織りだが、精巧な細工の高級品は手織りである。しなやかで器用な子どもの指が、複雑で繰り返しが多いこの仕事に向いているということで、イランでもぺルシャ絨毯産業に多くの子どもを動員していた。しかし国王がそれを禁止したために、インドやパキスタンがこの市場に参入していく。そしてインドでは、このカーぺット産業に携わる子どもの数は、七万五千人とも十五万人とも言われている。
 幼い子どもたちが、意識を麻痺させるような、根気のいるウールの結び目作りに二十時間も拘束される例があるのだというから驚きだ。そういった特殊な商品ばかりではない。インスタントラーメンや飲み物や菓子類、石鹸や靴や化粧品やシャツなど、最も基本的な食料や日用品を生産しているバングラデシュやマレーシアのプランテーションでも、子どもが安くて貴重な労働力となっているのだ。有名ブランドのジーンズの多くは、メキシコの小さな工場で働く子どもたちの手で作られているし、フランスの著名なデザイナーズブランドの衣装さえも、スーパーの安衣料と同様に、子どもたちが働くアジアの工場で作られているのだと言う。
 このように、発展途上国の小さな子どもたちの、低賃金による強制労働によって、現在ぼくたちが享受している、豊かな消費生活が保証されているのだから、これは深刻に考えさせられてしまう。我が国の子どもの本や出版文化にしても、直接的ではないけれども、途上国の若年労働者を擁した低賃金によって支えられているともいえるわけで、そんな中で世界の子どもたちのために「国際子ども図書館」を、なんてノンキなことは言ってられない。
 著者が各地で出会った働く子どもの中で、いちばん幼い子は、メキシコのアカプルコの街灯の下で、真夜中近くにチューインガムを売っていた三歳の子だった。貧困のために、簡単に売られて行くタイの子どもたち。その多くはバンコクなどの売春宿に送られ、エイズに感染した者も少なくない。パタヤ地区では、七歳の少女が売春していたという情報もあるという。フィリピンのマニラでも、赤線地区エルミタで七歳のときから売春をしていた、ジョシーという十歳の少女が紹介される。実際、幼児売春とも言えるような恐るべきエピソードで、怒りに震えてくる。五歳や七歳の少年を対象にした、幼児性愛者の残忍な行為などは、比喩ではなくまさに「子どもを喰う世界」そのものだ。
 苛めや登校拒否、不登校児童が問題にされ、爛熟社会の矛盾が様々の形で露呈してきている世紀末の日本だが、発展途上の国々では、まだ貧困のために絶望的な子ども時代を余儀なくされている、夥しい数の子どもたちが存在することを、この本は教えてくれる。人口の爆発的な増大を抑止するために、かなり強引な少子政策を進めている中国では、二千万人とも、それ以上ともいわれる、国籍に登録されていない子どもたちがいると言う。彼等は、学校にいけないのはもちろんのこと、まともな職を得ることさえもできないであろう。また、民族紛争や宗教的な対立から、今でも激しい戦争下にある国々の子どもたちも多数存在する。
 そのような子どもたちの、様々な現在をも視野に収めながら、子どもの本は考えられねばならない。「飢えた子どもの前に、文学は有効か?」などと、いまさら繰り返すつもりはないけれども、そういったパースぺクティブと全く無縁な発想も、なんだかウソっぽい。(野上暁
ぱろる1 1995/09/29