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「ほんとうにあったことの話を書くのは、なかなかむずかしいけど、そのむずかしいわけの一つは、いろんな出来事が、お話のなかみたいにつぎつぎに早くおこってこないことなんだ。それにまた、そうなにもかも、切りぬきのはめ絵みたいに、ちゃんと、うまい場所におさまらないことなんだ」と『この湖にボート禁止』の主人公で、語り手になっている作家志望のビルはいっている。大航海時代や植民地主義の横行した時代を経過した二十世紀にあって、起こりうるような冒険を、スリルとサスペンスを持続させながら物語っていくのは、ビルならずとも至難の技であろう。ランサムは、休暇物語という新しいジャンルを拓いたが、その延長線上にあって、のちに、タウンゼンドの一連の冒険ものにつながる作品群に、トリーズの「黒旗山」シリーズ五冊がある(第一巻が『この湖にボート禁止』)。 トリーズは、一九四七年の読書週間に二人の少女から、「どうして普通の学校に通っている子どもたちが出てくる本がないのですか」という質問をうけて、それに答える意味でこのシリーズに着手した。「どういうわけだか知らないけど、ふつう、お話のなかには昼まだけの学校の暮らしはあまりでてこないみたいだ。昼まだけの学校だって、けっこう寄宿学校とおんなじくらいにおもしろいのにな」というわけである。ドイツのケストナーの影響もあって、ごく普通の子どもが、その子の日常生活の中で織りなす冒険物語・学校物語の誕生である。 離婚後、父親が約束のお金を送ってこないために、苦労している家族に突如、母親のいとこから遺産として湖水地方にあるせせらぎ荘という家が贈られる。ロンドンの借間にいた一家は、住むことが条件に譲られた家にやってくる。ビルと妹のスーザンは、引っこした次の日ボート小屋をみつけ家の前にある旗の湖にボートを出し、小島に上陸してみて興奮するが、その日の夕方、アルフレッド・アスキュー卿が訪れ、鳥類保護場だし私有地なので、ボートはいけないと苦情をいわれてしまう。ビルは古い伝統のあるグラマー・スクールにいき、キングスフォード老校長と出会い、探偵志望の友人ティムができる。スーザンは、新しい教育をしている州立女学校に入学し、フローリー校長を知り、ペニーという親友ができる。ビルとティムはふとしたことからアルフレッド卿をうさんくさい人物だと信じるようになる。スーザンとペニーを誘って四人で森に探索にいき、穴の中に骸骨を発見することによってますます疑惑は深まる。ティムが森に帽子を忘れたことから、アルフレッド卿が学校に乗りこんでいき、キングスフォード校長もまきこむことになる。骸骨は検死にかかり、千年位前のものとわかる。校 長は地方史の研究家で、聖コロンバ修道院年代記を持ち出して、古い修道院の宝物が旗の湖付近にもってこられたという説があることを紹介し、アルフレッド卿と、アメリカのこっとう商がそれを探しているのではないかと推測する。ビルは、バイキングの研究家であるフローリー先生の弟から送られた旗の湖の航空写真をみているうちに、湖の島は、地上にいるときにはわからなかったが、先史時代の要塞のようにみえることに気付き、湖のそばでキャンプして四人で早朝、発掘してみることにした。掘っていくと、皿や骸骨が出てきて、伝説の宝を発見したことが判明。まず、ビルとティムが老校長のところに走り、スーザンとペニーも自分の校長に知らせる。アルフレッド卿をだし抜いて、持ち主不明の埋蔵物の発見者として、その宝物に相当するおかねがおくられ、宝物は国外に流出することなく、大英博物館におさめられたのであった。めでたし、めでたし。 以上のように、風光明美なカンバーランドを背景に、がんこなグラマー・スクールの老校長と、進歩的な公共の学校の若い女の先生、男の子の学校と女の子の学校、近所に住むタイラー夫妻を通したいなかぐらしの良さと、インド帰りのなりあがり者の地主のいやらしさ、古い遺跡と新しい航空写真・・・等々、いかにもイギリスらしい道具立てを揃え、日常のくらしの小さい事件を積み重ねて、一つの冒険へと運んでいく。ビルの口から語られるストーリーはなめらかで楽しめるものになっている。一人一人の人物像もくっきりと描かれ、特に作者自身の教師の体験と思想がもりこまれている老校長の出てくる場面は、生き生きとしている。自分はにこりともしない厳格なままでいながら、その存在と会話によって人を笑いに誘う英国式ユーモアの代表的な人物でもある。ビルの語り口にもそのユーモア精神はたっぷり感じられる。 ジェフリー・トリーズ(一九〇九- )は、中産階級の産物であったイギリス児童文学を真の意味でリアリズムに基づくものにしたいと、一九三〇年代から作家活動を始めた作家で、第一次世界大戦を経験したにもかかわらずそれまでの冒険小説があまりにもイギリスの優越性を謳歌し、戦争を栄光あるものと描いてきたことにきたらず、新しい史観に立つ歴史小説を発表してきたのであった。『貴族に向ける矢』や『反乱のきっかけ』である。 第二次世界大戦を経過した後の作品である「旗の湖」シリーズでは、そのリアリズム指向は現代という時代にむけられた。中産階級の子どものいた寄宿学校から普通の学校へと舞台をうつし、貴族階級を悪役にし、離婚家庭の貧しさにふれ、それまで描かれることのなかった視点から社会を切りとってみせた。当時としては、新しかった男女の交際や、検死の場に勉強ということで出むくということなども含めて、しかし七〇年代の今となっては、トリーズのリアリズムも古くさく時代がかって見えるのはさけられないことである。 しかし、老校長が「もし、ほんとうにこまったことがおきたときは、このわしにあいにきなさい。いつでもよい。時間の約束というようなものは、父兄だとか、視学官とか、教育委員といった人たちのためにあるんじゃ」「『自由の代償は終わることない警戒である。』現代のイギリスでも二千年まえとおなじくらいかんたんに奴隷になり・・・しょくん、たたかうのだ。おとなになって、そういうことに出会ったら、たたかうのだぞ。政府というのはわれわれにつかえるためにあるのだ――――」そのぎゃくではない」(『黒旗山のなぞ』)とその生徒に語りかける姿勢はトリーズの中核をなす思想でもあり、少しも古くなっていない。(三宅興子)
世界児童文学100選(偕成社)
テキストファイル化上久保一志 |
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