ことしの秋

伊沢由美子

講談社 1997

           
         
         
         
         
         
         
     
 ヒロは中学二年生、母親のドーコさんはパパと離婚し、ヒロと同い年の娘をもつ男と再婚している。
 物語はヒロがドーコさんの家を訪れるシーンからはじまる。「英国風をきどった庭」を持つ家のドアを開いたのは「おじさんだけどヤボくはない男」、といった批評の視線が、冒頭から色濃くある。
 それはわずか2ページ目、新しい夫に続いて現れるドーコさんへの、「ピンクグレーのニットワンピースを着て、白いエプロンをしている。うちでも着たことのある服をここで着ているのを見ると、バカじゃないかと思う。自分なら、こういうことになったら、前のものは全部すてるだろうとヒロは思う。無神経にものに執着するのはきらいだ」に至って、すでに一つのピークに達している。続けて3ページ目、泊りに来たと思っていたドーコに向かってヒロは「からっぽな両手をヒラヒラさせてみ」る。急にきびしい顔になるドーコを見てヒロは、「ほらね、変ってない」「この人はすぐに感情を顔にだす」と、ドーコを挑発し反応を引き出し、確認し、批評する。
 パパに関する最初の批評は「妻は出ていった。娘も妻の家によばれていき、気に入ればいずれは住むことになるだろう。とにかく男親は仕事でおそくなるし、出張で家を留守にすることもある。化粧した中学生が集まってタバコとビールと薬をやり、補導されたという新聞記事を見た。ここには置いておけない。妻のところにいったほうが目が届く。そのほうがいい。たぶんそういう一般的な結論にたどりついたんだろうとヒロは思う。パパは自信をなくしていた」(15ページ)。
 ヒロはこうした批評の視線で他我の距離をとり・測り、そのことでもって、自身の輪郭を描く。
 もちろんこれはヒロが、特殊な子どもだというのではない。それよりむしろ、この国で現在、「子ども」を生きる子どもの姿そのものである。この物語はそれをヒロを使ってよく捕まえている。
 生身をさらさぬために、対する者をサーチし、踏み込まぬこと踏み込まれぬこと。踏み込んでもいい位置辺りに自己像を描いておくこと。新しい夫の娘が摂食障害であり、その悩みをドーコがもらしたとき、「ドーコさんをきらって、ハンガーストライキしてるとか。」と述べる冗談と皮肉ギリギリの、ドーコへのヒロの気持ちのありようは、こうした距離の保持によって表明することができる。そして、「ドーコさんをいじめるのはけっこう楽しい。こんなふうに弱味を平気で見せる大人は、ヒロのまわりには、パパとドーコさんしかいない」(24)という心の呟きが記され、「パパとドーコさんしかいない」のは彼らがヒロの親だからであるのを、ヒロ自身が確認していることを明確に示す。
 「ためしに母親をいじめてみる」少女といえば十年前の宮市和希(『ホットロード』紡木たく 1986-1987)がいる。不倫をしている母親の誕生日にわざと万引きをし、わざと捕まり、「私はママにこれをプレゼントしてあげる」と和希は心の中でつぶやく。けれど彼女はそこで批評し距離を測るのではなく、苛達に正直に動き、暴走族の世界にいっきに飛び込んでいく。
 そこから十年、子どもたちは新しい生き延びかたを習得したわけで、ヒロもその一人としてとてもうまく描けている。となれば、そのヒロを物語はどう動かすのかが興味となる。
 結論だけを述べれば、物語は急ぎ過ぎている。ここから物語は始まるという地点で、閉じてしまっている。残念!(ひこ・田中
ぱろる8号 1997/12