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この本を読みながら、これまで二、三度うかがう機会のあった、清水さんの講演を思い浮べていた。もちろん、この本は講演録であるのだから、それは当然といえば当然の話だが、講演会場での彼女の、聴き手をしっかりと見つめ、その問いに応え、具体的なエピソードとユーモアをまじえた、わかりやすく魅力的な語り口が、それほどまでに再現されているのである。 さて、この本を読み終わり、私は即座にある本を手に取った。それは、アーシュラ・K・ル=グウィンの『世界の果てでダンス』(白水社)という評論集だが、中でも「ブリン・モー大学卒業講演」という一編が、妙にオーバーラップして思い出されたのだ。この講演を、ひどく手短に要約してしまえば、「父語」と「母語」、そしてそれをつなぐ「学んで得たのではない言語」について語ったものだ。ブリン・モー大学という、おそらく女子大の卒業生に向かい、「<父語>という公のディスクールだけではなく、女性の言葉である<母語>でおしゃべりなさいね。そうして、歌や詩や物語にある<学んで得たのではない言葉>=アートの言葉に耳を傾けなさいね」と、ル=グウィンは語る。そして、これを改めて読み直し 感じたのは、ここに語られていることが、ほぼ完璧な形で実現されたのが、この『幸福の書き方』ではないかということだ。 「物語」「社会のものさし」「男の論理」という、この本の中で多用されるキーワードは、おそらくル=グウィンのいう「父語」というものにまとめることができる。そして、それらを解体し、「相対化する眼」を持つことによって、ひとりひとりの幸福に行きつくことを語っているのがこの本であろう。もっとも、この論理展開の類似によって、完璧な形での実現などというつもりはない。ル=グウィンと違い、この本では「母語」の効用を声高に語ったりはしないのだ。なぜなら、この本の語りそのものが「母語」であり、たとえば、語り手自身の身近なエピソードによって、共に考えていこうとするあり方など、正にル=グウィンのいう「母語」にほかならないからだ。 子どもの本という「学んで得たのではない言語」に耳を傾け、それらの作品の主張するテーマ=公のディスクールに搦め捕られやすい言葉でなく、作品のそこここに点在する細やかな響きに着目し、更に自身の体験によるエピソードを真実の一部として受取りながら聴衆と向かいあうこと、ここにル=グウィンの目指したものの実現を見ることができる。 ところで、最後にこの本の読まれ方についての不安を一つ書いておきたい。それは、この本の持つあまりに明快な説明と、見事なキーワードゆえ、ともすればそれらを公のディスクールの中に流用する人たちがいないか、ということだ。子どもの本は、今や少数のマニアックな人々の周辺で動いている。そして、子どもの本を自らが楽しむというよりは、子どもに本を「与える」のが好きな人も多い。「〜であること」の正しさが社会全体を覆っている今日、「〜でないこと」の豊かさを語ってみせたこの本を、お願いだから「こんなふうに児童文学は素晴らしい。だから、本を読ませなければならない」式の論理に用いないでほしいのだ。やわらかに包み込まれた空気を食べる綿菓子のように、この本も行間を楽しんでほしいと思う。(甲木善久)
週刊読書人 1992.8.17.
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