クマのプーさん

ミルン・A・A:作
石井桃子:訳 岩波書店

           
         
         
         
         
         
         
    
 『クマのプーさん』と『プー横町にたった家』は、魔法の森でプーたちが繰り広げるトンチンカンな出来事を描いていて、おもしろおかしく、ホノボノをさせてくれるのが最大の魅力。だから、あまり気にされることはないのですが、『プー』の始まりと終わりは、奇妙なものです。
 まず、始まり。蜂の巣にある木に登ったプーの頭にふと浮かんだのはクリストファーのことだったと語り手が述べ、「それ、ぼく?」と彼が驚くシーンが出てきます。そして、「きみさ」。
 この瞬間クリストファーは、生身の彼とフィクションの彼に分かれます。そしてプーはクリストファーにハチミツをとる助けを求めに行くと物語は進みますが、このエピソードの間、語り手はフィクションのクリストファーのことを、「きみ」と呼び続ける。ですから、この最初のエピソードは、生身のクリストファーに向けて、彼を主人公にした物語を二人称で語っていることとなります。以降のエピソードに「きみ」は出てこず、一見三人称のようですが、この最初のエピソードで手続きを終えているだけで、『プー』は最後まで二人称の物語ではないかと私は考えています(地文の「クリストファー・ロビン」を「きみ」に置き換えても『プー』は最後まで読めるはず)。
 どういうことかといえば、あくまでこれは、クリストファー・ロビンのためだけの、ごくプライベートな物語を装っているのです。だから子どもであれ大人であれ、読者は読むことを通して直接この世界に参加するのではなく、登場するクリストファーや動物たちのエピソードを外側から眺めて楽しむことができる(しかできない)。
 この世界がいつまでたってもホノボノさを失わない原因はその辺りにあります。
 けれど、『プー』のクリストファーはいつまでも子どものままでも、生身の彼は成長していきます。読者が愛して眺める子どものクリストファーと、成長していく生身彼の乖離。その危険性に作者は気付いたのでしょう、『プー』の終わりをいささか強引に描きます。なにしろ『プー横町』のまえがきで、これがプーたちとのお別れの物語であると宣告しておくほどなのですから。最終章は「クリストファー・ロビンは、いってしまうのです。なぜいってしまうのか、それを、知っている者はありません」と始まります。とてもあいまいだけど、なにがなんでも彼を物語から回収しようとの強い意思が伝わります。それが生身のクリストファーにとってどれほどのサポートになったかはわかりません。しかし、『プー』の方は、クリストファーを無理やり退場させたことで、「子ども時代」が独自の価値のある時代であることを印象深く描いた物語と見なされることとなったのです。(ひこ・田中)
(徳間書店「子どもの本だより」2000/11)