クヌギ林のザワザワ荘

富安陽子・作
安永麻紀・絵
一九九〇年六月、あかね書房

           
         
         
         
         
         
         
    
◆地に足のついたメルヘン
 山奥…といっても町へは通近距離にあるのだが、黄金色の風草がそよぐ野原の向こうのクヌギ林に、不思議な住人たちが暮らすアパート「ザワザワ荘」がある。そこにこの物語の主人公、科学者の矢嶋先生が住むようになったいきさつが語られる冒頭のシーンは、朝、町の豆腐店での仕事風景だ。ほんとうにこの作者は文章がうまい。豆腐店のあたたかな湯気、豆のゆだる甘いにおいが読者に伝わってくる心にくい書き出しだ。そして<雲>を作る実験を本領としているヒゲづらの矢嶋先生が、けっしてカスミを食べて生きているのではなく、この店に毎朝出勤して仕事をし、給金と<おから>を貰っていること、そしてそのおからを近所のネコたちに振舞ってやっている行為のおかげで、猫股不動産屋からザワザワ荘を紹介してもらうという成り行きも含めて、物語が空中浮遊しているようなメルヘンとは一線を画していると感じられる。
◆妖怪たちの<影>の部分
 矢嶋先生の隣人たちは、<水の精>、ムーミンのスナフキンのような感じの<アズキトギ>、そして<化けギツネ>になる特訓をしているキツネの母子という顔ぶれだ。かれらは先生と意気投合し、酒を酌みかわすが、楽しく愉快なだけの仲間ではない。大洪水をおこしたため竜宮を追放された水の精は、人間の子どもを池に引きずりこみ、かわりに人間になることを画策しているし、アズキトギは死んだ人間の魂を集めて瓶に入れている。その魂たちをこっそり逃がしてやろうとした先生に、アズキトギは「よいことも悪いことも、いつも二つで一つなんです」という。こうしたところは、一木一草に「或は鬼神力宿り、或は観音力宿る」とした泉鏡花のように、善悪を表裏一体とする日本的な考え方が現れていて興味深いが、一方、こうした曖昧さがファンタジーとしての力を弱めているともいえる。
◆縛られない自然観
 キツネの母子はやや人間のパロディ化が過ぎて(特に母キツネの描き方)今ひとつだが、全体的には、日本的なものを意識的に踏まえながらも、自在な自然観による物語が展開されている。水源が干上がったため、先生が噴霧器で雲を作ろうとし、雷鳴をおこして水竜を目覚めさせるところ、また老人星と呼ばれるカノープスが、僧の形で降りてきて、水の精を<権現さま>に昇格させたりするところがおもしろい。作者は子ども時代をカナダや大阪郊外の豊かな自然のなかで過ごしたという。やはり海外の自然体験を持つ大嶽洋子の『黒森へ』を思い出させるところもある。ザワザワ荘へは、これから猫股不動産の親戚にあたる石道の婆という妖怪も越してくるらしいという続きの期待を残しながら、物語は終わる。さらに日本的な自然の世界に分け入った<スズナ姫>のシリーズもある。(きど のりこ)

テキストファイル化岩本みづ穂