クローディアの秘密

E・L・カニグズバーグ:作・絵
松永ふみ子:訳 岩波書店 1967/1969

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 カニグズバーグは作品づくりに闌けた人である。プロット構成も人物の配置も、落ちも、心憎いばかりなのである。作品を読むというより、読ませられるという一面をもっている。人間は勝手なもので、こんなに巧いと、作品全体がすべて同じトーンで塗りつぶされているような錯覚にとらわれる。もの足りなさが頭をもたげるのである。
 『クローディアの秘密』は、同じ作者の処女作『魔女ジェニファとわたし』が次点作となった六八年のニューベリー賞受賞作である。作者はその受賞記念スピーチで、「自分が経験したことがさらに現実味をもつためには、それをことばにしてみたい」と述べている。今までに描かれたことがなく、しかも我々のまわりに確かに生きている人物像を描きたいおもいにかられるというのである。現代のアメリカに生まれ、成長した子どもたちの中にあるたくましい現代性と、あっけないもろさを、自分の子どもたちの中にも見てとっていたカニグズバーグは、彼らに古くて新しい冒険をさせてみようとする。「自分の頭も身体も、不愉快なことには正確に拒否反応を示すわ」と、悪びれた様子もなく宣言するクローディアは十二歳。自分のかかっている現代病の治療として、クローディアは家出という処方箋をみずから出したわけである。自分なりの哲学でこの世をかなりゆうゆうと生きている弟のジェイミーを伴って、彼女は美術館にむけて出発する。家出した場所に落ちつく後にも先にも、チームをくみながらもこの二人は肩を寄せ合って頼りあう表情は決してみせない。いかなる大人からも一切の規制をう けない日々を過ごしながら、クローディアはごく自然に母親の立場をとり、清潔で規則正しい家出生活をモットーとする。ジェイミーは家出生活中という状況を忘れて、クローディアの言葉を全く日常的ないいつけとして従う。しかし毎日ノルマをきめて勉強するという規制をみずからつくりだしたクローディアに対しては、ジェイミーは、家出なんてそんなものじゃないと反発するのである。確かにそんなものじゃないとあいづちをうちかけるが、当のジェイミーは、勉強の形を自分なりに変形して熱中しはじめる。
 二人はミケランジェロの天使像をめぐって図書館に通い研究をつづける。結局二人のなぞときは、天使の像のもと持主であったフランクワイラー夫人のところへでかけていくことで核心に入る。夫人はクローディアに秘密を与えることで、十二歳の少女の誇りを傷つけることなくカニグズバーグのいう内的規準を手に入れさせる。
 「十二歳くらいのこどもに私は特に興味があります。社会的な圧力が増すと同時に、内面のegoが発達する時ですから。【注1】」カニグズバーグのこの言葉は、ごく一般的なものである。こうした正攻法的な作者の視点は、時にクローディアを言葉のみでリアリティのない存在にしてしまう恐れがあるようにおもわれる。十二歳の少女の実在感がたかまるのは、場面としてあげれば、フランクワイラー夫人とクローディアが出会う時である。(しかしそれは作者が意図したものかどうか疑問であるが。)夫人はかなり高齢で(八十二歳)、すいも甘いも噛みわけた人だが、それなりの頑固さとプライドを保ち、世の中おもしろくもない顔をしながらユーモアを充分に解する――つまいたいしたおばあさんなのである。この人を前にしてクローディアは緊張する。大人と対することを意識する十二歳の少女になる。大人が見ていてもむずむずして居心地の悪い、背のびした大人像を演じようとする。けれども、我を忘れると演じていることすら忘れてしまい、遂に背のびに歩調をあわせていた大人をあわてさせる。そういう意味で内的規準――秘密を持って、家出前とはちがった人になって帰る――を与えたフラ ンクワイラー夫人とクローディアの関係には、興味深いものが残るのである。
 また、いくつかのシーンは、作者のさし絵も伴って印象的に眼に浮ぶ。十六世紀あたりのかびくさいベッドに入って眠った二人の表情、こごえるような寒さの中、噴水にはいって水浴びをした心地よさ――出る時には願いごとのために投げこまれた二ドル九十セントの収穫もあったのだから――を私達は、においや冷たさとして感じることすらできるのである。そこで作者の創り出した代表的な子ども像のクローディアが、感覚的に、生きた人間の暖かみを果して感じさせるだろうか、という疑問が湧いてでるのである。前に述べたように、フランクワイラー夫人とのやりとりの場面でクローディアは生きる。言葉をかえれば、フランクワイラー夫人像の厚みがクローディアに息をふきこむという印象すらうけるのである。確かにクローディアは、判断力に富むかなり優秀で活発な女の子だろう。行動力においても指導力においても、十二歳としての力を充分に発揮する。これらは全編を通して手落ちなく語られる。少しピントのはずれたジェイミーを置くことで、その対比もおもしろい。しかしもっとも残念なことは、読者がそのクローディア像をふくらませない点である。そうした余地を残さずに作品づく りがなされているともいえるだろう。クローディアに限らず、カニグズバーグの作品に現われる他の人物像にも、こうした点にとまどうのである。卓越した会話とすぐれた描写は、かなり鮮明に人物像を描ききっているはずなのに、哀しみや暖かみが伝わってこない場合がある。カニグズバーグが、身辺の人生をうつそうとしたのならともかく、創作した世界の中に(ファンタジー、リアリズムを問わず)子どもを登場させたのである。暖かい息をふきこんでほしい。
  最近のカニグズバーグが構成する世界は、歴史にさかのぼった調査、記録風物語にかける熱意で満ちている。現在焦点をしぼって考えているのは、自分のものさしを持つ婦人【注2】の生き方であろうか。(フランクワイラー夫人もその中に入れたいところだが?)クローディアに託した家出を、作者みずからが模索する番になったのかもしれない。今後、子どもの本のなかで何をどう描いてゆこうとするのか、興味のつきない作家である。(島 式子

【注1】 カニグズバーグ「アウトサイダーの文学」(『子どもの館』一九七五年一〇月号二四頁)
【注2】 『ジョコンダ夫人の肖像』松永ふみ子訳(岩波書店、一五八頁参照)
世界児童文学100選(偕成社)
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