キューポラのある街

早船ちよ作
鈴木義治絵 理論社 1963

           
         
         
         
         
         
         
     
 『キューポラのある街』は、昭和34年から35年にかけて雑誌『母と子』に連載され、翌36年単行本になり、映画化もされた。当初の読者対象が大人であった点で、下村湖人の『次郎物語』(昭和13年〜29年、雑誌『青年』『大法輪』などに連載)を思い起こさせる。この二作はともに゛啓蒙の書゛の性格をそなえており、主人公が所与の環境に大きく支配されながら、さまざまな事物を見聞、体験するうち、その環境を克服してひとりだちしてゆくという基本構造も一致している。
 しかし、その内容と雰囲気はかなり違う。『次郎物語』は、本田次郎の誕生から筆を起こし青年に達するところで中断している。主人公のまわりに登場してくる者が肉親や友人、先生など身近な者である点は同じだが、
それらはほとんどつねに次郎の喜怒哀楽や倫理、愛といった内面的葛藤にかかわる契機としてあらわれ、精神の成長を検証する存在として描かれている。ここでは「岩割りの松」とか「白鳥葦花に入る」といった形而上的な比喩が大きなエネルギーを持ち、夕食のコロッケが三つでどうの、鯨肉百グラムが十二円でこうのといったことは問題ではない。
 『キューポラのある街』の主人公・ジュンは、中学三年と限定されている。弟のタカユキなどとともに名前はカタカナで表され、苗字はわざと省いてある。一方、舞台である川口の町や工場のようすは、地理の百科事典以上に詳しく述べられ、作者自身のあとがきによれば、「この作品に扱われている問題は、ずいぶん欲張っています。主題は、中学三年生のジュンを主人公に、いわばその〈近代的自我〉の目ざめを心とからだの両面から、その成長過程を追求していくことになります。そのテーマに沿って、高校進学か就職か進路をえらぶ問題、生活の貧しさということと、そのなかでの親子かんけいの問題、小・中学生の不良化、友だちとのあいだの民族のちがいと友情の問題、ハナエおばの夫の南鮮抑留と友だちの北鮮帰還の問題、父母の職業と、中小企業に働く人たちの労働と賃金の問題、企業の近代化という問題と、古い職人気質である父と、そのしごとへの誇りと失業の問題、中小企業と大工場との対照と、そこに働く人たちの意識の問題、そのほかタカユキにとっては、母の信用と愛情の問題、ジュンにとっては女性の目ざめと性の意識の問題など、いくつもの問題が、問題提起のかたちで織り こまれています。」ということになる。実際の内容を一読すれば明らかであるが、ジュンとそれをとりまく人々は、それぞれが有機的に影響を及ぼしあってお互いの内面を深めてゆくという以上に、当時の日本社会状況を集約した典型として形象化されていることがわかる。敢えて分類すれば、『次郎物語』は、世にいう体験者としての視点から生み出された気求道的な成長小説、『キューポラのある街』は、教育労働者としての視点から提出されたドキュメンタリータッチの物語といってよいであろう。
 こういう作品は、それまでの我が国の児童文学の中に全くといっていいほどなかった。川口は何の変哲もない町であるが、「キューポラ」という象徴の語感は驚くほど新鮮なイメージを与える。(「早船ちよ」という作者名も新鮮だ。)赤ん坊など日本中で一分間に何人となく生まれているはずなのに、その現場が児童文学で、しかもその冒頭で描かれた例はない。初潮を体験する場面もしかりである。頭上を舞うハトにサシとか灰ゴマとかの名前があり、それが売買されたり友情に関わったりしている事実も読者には珍しかろう。朝鮮が二つに分かれていることは知っていても、そこに帰るに際し両親姉弟が別れ別れになってしまう現実があることなども、衝撃的であろうと思われる。つまり、『キューポラのある街』は、あくまで衣食住という実生活の基本から、既に厳然として存在する現実を少年少女の眼を通して再確認させた現地報告であり、その最たる特質はハイ・ファイデリティにある。思春期から青春期に向かう少年少女の多くがそこに自己を投影して共感する要素は、多分にあるわけである。読者は、本田次郎に、その悲劇的な生い立ちまでをも含めて、自分のあるべき姿を見ただろうが、ジュ ンやタカユキには、自分の今ある姿、ありうべき姿を見たといえよう。
 さて、では、ここに絵かがれたジュンが、はたして作者のいうように〈近代的自我〉に目ざめているかといえば、それには首をかしげざるをえない。少なくともジュンは「行動する者」として企図されていながら、「行動」しはておらず(口紅をぬってヤクザな青年の所にあいに行ったり、先輩の工場を下見に行ったりするのを行動と呼ぶのなら別だが)、終始「見る者」として描かれている。そして肝心のその「見られるもの」は、人物だけとりあげてもずいぶん類型的なのである。本当の職人があんなに頻繁に自らを職人と称し、その誇りじみたものをひけらかすものかどうかはさておき、ショウチュウに溺れ、暴力暴言の限りを尽くしながら妙にお人好し然に描かれている辰五郎。母性愛をほの見せながらただオロオロしているばかりのトミ。このへんは野上三兄妹の『つづり方兄妹』、ピエトロ・ジェルミの『鉄道員』、サダジェット・ライの『大地のうた』、あるいは、『大草原の小さな家』など、いずれも貧しい環境に出てくる父母像と比べてもらいたい。さらに、ノブ子とその父親である建築技師、ただ一人登場する教師の野田、定時制高校に通っている女工のサユリ――。タカユキの友人サンキ チを除けば、どの一人をとってみても、いかにも平板で真の人間味に欠けているのである。
 「考える者」としてのジュンを点検することをもうよそう。その葛藤の根が意外に浅く単純であることだけは指摘しておく。
 いずれにせよ、ジュンの楽天性や正義感、けなげさなどは、作者によって初めから設定されたものであり、簡単に〈成長〉ととってはいけない。〈近代的自我のめざめ〉など、むしろ深い孤独を確実にくぐりぬけている本田次郎にこそふさわしいことばであって、ジュンは、まだまだはるか手前にいる。、『キューポラのある街』の果たした役割は決して小さくはないが、時代状況を超えて通用するためには、人間それ自体に対する洞察が、もっと必要だと言わねばならない。ハイファイとリアリズムは、同じではないのである。(皿海達哉
日本児童文学100選(偕成社)
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