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1974年作品ですからちょうど一世代前です。十三歳の少女利恵の一夏の物語。 利恵は母親を早くに亡くし、父親は女癖が悪く家を出てしまい、祖母と二人下町で住んでいたのですが、その祖母も亡くなり、鎌倉に住む叔母の家で暮らしています。 物語は今父親と一緒に暮らしているお八重さんが営んでいる美容院を利恵が訪れる所から始まります。店の奥で昼間からお酒を飲んでいる父親を無視して、利恵は初めて会った八重に言います。「この家の子どもにしてください」。子どもも何も、相手に子どもがいることすら知らなかったらしい八重のあわてようを見て利恵は、逃げるようにして鎌倉の家に戻る。叔母は名門女子中学の英語の教師で、躾に厳しく、利恵に愛情のひとかけらも与えてくれない。人を愛することを知らないような人。それに耐えかねて利恵は八重を訪ねたのでした。それから色々あって、利恵は八重と一緒に暮らす。父親の困った所行はありながらも気のあった利恵と八重は楽しい日々を送ります。でも、ラスト利恵は「八重おばさんの家は、(略)居心地がよくって、体がとけちゃいそう、わたしがいなくなっちゃいそう。こんなに居心地がいいから、かえってこわい」。「もう一度やってみる。あのぎくしゃくした、ぎしぎしした、まるで針のむしろのような家にかえって」。 一読したとき私は、子どもの本の中には、こういうメッセージもあるのだと思いました。 けれど、居心地がいい所から、針のむしろのような家に帰るのが、納得がいきません。巧く描けていないからかとも思いましたが、それよりもっと基本的な問題のようでした。で、思ったのは、そこに作者は十三歳の力強さへの信頼と期待を描いているのではないか? もちろん当時は村瀬学さんの『十三歳論』があったわけではありませんから、「十三歳」というより、子どもから大人に変わる時期への信頼と期待です。「子どもは苦労して成長する」などというおためごかしではありません。願いを込めて背中を押すとでもいえばいいのでしょうか。乙骨が子どもの本を書く理由がわかったような気がしたのをよく覚えています。 そして今回読み返してみて、「居心地がよくって、体がとけちゃいそう、わたしがいなくなっちゃいそう。」にドキッとしました。この言葉は書かれたとき、背中を押すためのものだったのですが、今の子どもにとっては、痛々しいほどの現実なのです。(ひこ・田中)TRC新刊児童書展示室だより15 2001.12.19 |
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