現代児童文学の語るもの

宮川健郎著

日本放送出版協会 1996


           
         
         
         
         
         
         
         
     
 著者はこの著作を「現代児童文学の歴史のなかで、重要な山場をつくっている時期や作品、事柄をえらんで、それについて、集中的に書こうとした」(19頁)もので「児童文学史年表を文章化したような、そういう文学史ではない」とことわっている。「集中的」にという言葉が示すように、この本はいくつか新しい提言をおこなっている。そのもっとも大きなものは、たぶん1980年を日本の児童文学の転換点の一つとする説だろう。著者は、「現代児童文学の成立を準備した問題意識」として(1)「子どもへの関心」(2)「散文性」の獲得(3 )「変革」への意思をあげ、これらが消滅ないし疑問視され、子どもの文学が必然的に変貌をはじめたのが1980年とする。
 戦争が終わって間もない頃に出た『二四の瞳』を「きまじめなエンターティンメント」と呼ぶ石井直人の意見を紹介(第2章)、第5章では、著者が80年転換説の拠り所の一つとする『ぼくらは海へ』(那須正幹、1980)を同じ作者のエンターティンメント「ズッコケ」シリーズと同質のものとする考えを述べている。
 終章は、成長物語として書かれてきたこの50年の児童文学について「1959年の現代児童文学を成立させた問題意識は、みな消去されてしまったように思える。状況はもう、がらんとして廃墟のようだ。1959年にはじまった、子どもの文学のひとつの時代がおわろうとしているのかもしれない」(225頁)と、一見悲観的である。
 以上、私の目に特に重要と写った事柄を3点あげたが、これらは、どれも、真剣に論じ、研究すべき問題と思う。(宮川や石井は、ひとつの節目を1980年前後に置いて考えているが、もしその説が納得できるものとすれば、1945年以後の日本の子どもの文学は、ほぼ10年単位で変わるパターンを描く。)
 エンターティンメントを除外して子どもの文学を考える硬直した姿勢が、この50年の子どもの読むものをつまらなくしてきたことを、我々は考えるべきである。
 そして、20世紀後半の子どもの文学が、一文化の一生のプロセスをたどったことはたしかだと思う。
 戸惑いを感じさせられるのは、第1章や第2章など、いわば文学史的記述ですすみ、その文体になれたところで、今度は書評的、作品解説、あるいは作品論的な文体に変わるようなところである。それは、雑誌や新聞に掲載されたものを下敷きにしていると「初出等について」でことわっているので、わかるのだが、全体的な統一感は薄れている。そのためだろう、重要な問題が提出されたまま、未消化に終わっている。例えば、80 年転換説(私は転換を使ったが本文では変質や変貌が用いられている)の論述にしても、数少ない作品を長いスペースを使って論ずる具体的方法でよかったかどうか。
 最近の研究は、狭く深いというのか、スケールの大きなものがすくない。その意味で、これは、この50年を包括的に論じようとする大胆な試みであり、対象に対するさまざまなアプローチを示してくれた。
著者は現代史を完成させるスプリングボードを作ったのではないか。(神宮 輝夫
読書人 1996/11/08

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