「児童の発見」再考
イデオロギー装置論(アルチュセール)に向けて―

目黒 強

           
         
         
         
         
         
         
         
    

1 問題の所在
 柄谷行人の論文「児童の発見」(1)が児童文学研究における基本文献として認知されていることは、たとえば「日本児童文学言説史20選」(2)に選出されていることからも窺える。試みに、日本児童文学学会編の研究叢書『研究=日本の児童文学』のうち、現在刊行されている三巻に収録された論文36本を概観したところ、5論文が柄谷論文に明示的に言及していた(「風景の発見」を含めれば6本)(3)。しかし、かくも言及される柄谷論文の児童文学研究における受容には、決定的な欠落が指摘できる。内容的に見て「児童の発見」を主題ないしは前提にしているような論考のみならず、先にあげた柄谷論文に直接的に言及した諸論文のいずれもがアルチュセールに言及していないからである。たとえば、柄谷は「児童」が「発見」される「転倒」を説明する件で、「構造論的因果性」という術語を用いている(4)。柄谷論文の鍵概念である「転倒」を説明している箇所だけに、注意が要されるところだ。「構造論的因果性」については後述するとして、殆ど説明らしいコメントもなしに出てくるこの術語は、そのリソースであるアルチュセール派の議論を参照することなしに十分理解されるようには思われない 。そもそも、柄谷初期の代表的著作が『マルクスその可能性の中心』(5)であったことを想起してみれば首肯されることと思うが、マルクスを革新的に読み替えたアルチュセールが看過されることは、思想史的文脈から見た場合、これほど奇妙なことはないのである。
 もちろん、児童文学研究が思想ないし哲学的著作を参照していないからといって批判される筋合はない。この程度の問題であれば、小論の指摘は、アルチュセール論文を(柄谷論文とセットにされることが多い)アリエス著『<子供>の誕生』(6)程度の基本文献に加えるべきだという消極的な提言に留まるかも知れない。しかし、児童文学研究は、1962年の時点で、安藤美紀夫論文「「ピノッキオ」と「クオーレ」」(7)のような先行研究を有していた(『<子供>の誕生』の原著は1960年刊行)。『<子供>の誕生』は、「家庭」と「学校」が「子ども期」の産出される必要条件であることを明らかにしたが、安藤論文もまたアリエスと問題意識を共有していた。安藤は「祖国・家庭・学校をつなぐ明瞭な一本の線」(7p)の上で、イタリアの児童文学を考察した。このような方向は事実上、アリエスが提示した枠組から国民国家論として児童文学研究を起ち上げることを意味する。かくも先見的な考察ができたのは、彼がイタリアという近代国民国家の後発国をフィールドにしていたことと関係している。しばしば指摘されるように(8)、イタリアと日本は後発国であるが故に、近代のイデオロギーが圧縮された 分だけ目に見えやすい。安藤はイタリアの児童文学について次のように言う。

 新しい階級には、当然、それに対応した新しい教育がなくてはならない。そして、これが、国家統一の理念と結びついた時、イタリアの児童文学は、他のヨーロッパ諸国には見られない独自の道を歩みだすようになるのである。(安藤論文、13p)

 安藤が指摘したイタリア児童文学に「独自」の国家主導型とも言える性格は、近代日本においては、たとえば次のように批判されることがある。

  ヨーロッパの児童文学は市民革命を経て、子どもを独立した人格の持ち主として規定するところに生じた。それは近代の歩みと密接に結びついていたのである。が、日本の近代は、旧体制をひきずっての近代の移行であった。明治維新は下からの市民革命ではなく、上からの改革であった。(関口安義「日本児童文学の成立」26p)

 注意しよう。ヨーロッパとイタリアあるいは日本の児童文学の成立事情に基本的には大差はない。イタリアと日本の場合は、後発国であるが故に国家に教導された事態が明るみに出ているが、市民革命を経たヨーロッパ諸国ではそのような操作が巧妙に隠蔽されている分だけ見え難くなっているにすぎない。関口が柄谷論文を批判して「上からの改革」のイデオロギーを見ないと指摘するとき([柄谷の言う「児童の発見」以前に]「教育界からの要請」による子どもの発見が先行したのである」27p)、関口が看過しているのは「下からの市民革命」のイデオロギーに他ならない。柄谷論文の問題意識は、この後引用する文章からも明らかなように、「下からの市民革命」こそが「上からの改革」を保証するという共犯関係にあった。その意味で関口論文は、安藤論文の問題圏を出るものではない。仮に柄谷以降が設けられるとすれば、安藤論文において(そして、安藤論文以降)十分には理論化されていなかった国民国家形成の論理が明らかにされる限りにおいてであろう。柄谷論文の摂取とは、安藤論文の批判的継承に他ならない。たとえば、柄谷が次のように述べた論理は、果たして十分に議論されてきた と言えるだろうか。

  明治国家が「近代国家」として確立されるのは、やっと明治二十年代にはいってから である。(略)むろんこれは体制の側から形成された。重要なのは、それと同じ時期に、いわば反体制の側から「主体」あるいは「内面」が形成されたことであり、それらの相互浸透がはじまったことである。(柄谷前掲書、126p)

 「上からの改革」が先行したのか、「下からの革命」を経験したのかという二者択一ではなく、両者が補完し合う関係をこそ見なくてはならない。以上の力学がもっとも働くのが「主体」であり、「内面」なのである。「子どもを独立した人格の持ち主として規定するところ」(関口)の主体性の政治学が議論されることになるだろう。おそらく、先のような誤読が生じたのは、柄谷論文の主要な参照先であるアルチュセール論文が看過されているために、その問題構成が十分に俎上に載せられていないからである。少なくともアルチュセール論文は、「下からの市民革命」が「上からの改革」を補完してしまうという国民形成における主体の二重性(主体性と服従性)を考察する端緒となった論文であった。果たしてアルチュセール論文が提示した国民国家論とは、如何なるものであったのか。アルチュセール論文の検討を通して、柄谷論文の理論的骨格を明らかにすると同時に、柄谷論文に欠落していた問題のいくつかを指摘できればと考えている。

2 「イデオロギー」の構造
 ルイ・アルチュセール(1918〜1990)については、今村仁司『歴史と認識』(9)をはじめ、最近では「現代思想」が特集を組むなど(10)、優れた先行研究が蓄積されている訳だが、アルチュセールの思想全般を議論するのは小論の範囲を超える。われわれの関心は「児童の発見」のフォーマットを明らかにすることにあるので、1970年の論文「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」を議論するに止まらざるを得ない。アルチュセールの他の諸論文については、前掲論文にかかわってくる場合にのみ、言及したい。
 「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」(以下、アルチュセール論文と表記)は1970年に発表された論文だが、邦訳は「思想」1972年7月号と8月号に分載されている(11)。これから明らかにされる通り、アルチュセール論文が児童文学研究にとって看過できない論文であるならば、柄谷論文以前にアルチュセール論文を手にする環境が整っていたことは強調されてよい。日本において子ども論が転回したとされる1980年の時点で(12)、アルチュセール論文が想起されなかったことは、わが国における子ども論の性格を告げているようで示唆的である。
 アルチュセールのイデオロギー論を理解するには、その歴史観を議論しなければならない訳だが、アルチュセールがそうしたようなヘーゲル的歴史観の再検討は小論の手に余る。以下の議論は、アルチュセールのヘーゲル理解には関知しない点をお断りしておく(13)。
 アルチュセールの歴史観は、「『資本論』の対象」(14)で明快に議論されている。曰く、「マルクス主義的全体の特有の構造についてこう結論することができる―全体の異なったレベルの発展過程を同一の歴史的時間のなかで考えることはもうできないと」(70p)。ここでアルチュセールが批判しているのは、歴史に関する二つのタイプの概念である。一つは、ある時間の後にもう一つの時間を置く歴史観の推移的連続性である。この前後する二つの時間が連続的であるためには、それぞれの時間が等質であることが前提にされていることになる。したがって、歴史を推移的連続性において理解することに対する批判は、個々の出来事をある時代に還元する歴史観を否定する(「時間の等質的連続性は、理念の弁証法的発展の連続性の現実存在への反照である」58p)。個々の出来事の集合がある時代を形成するという歴史観は、諸要素が同一の時間において把握されることに他ならない。それは、とりもなおさず、各要素が等価値なものとして一つの座標に定位されていることを意味する(「歴史的現実存在の構造は、全体のすべての要素がつねに同じ時間のなかで、同じ現在のなかで共=存在し、したがって 同じ現在のなかで互いに同時代であるといった構造である」59p)。先の推移的連続性批判が歴史の通時性に向けられたものであってみれば、ここで批判されているのは同時代性(通時性との対比で言えば共時性)だと言える(「共時態/通時態のカップルは誤解の場所である」85p)。
 このようにして歴史観における二つの因果律、すなわち推移的因果性と表出的因果性(全体が部分に表出されているということ)を批判したアルチュセールは、「換喩的因果性」という概念を提出した(「構造論的因果性」と呼ばれることもある)。換喩的因果性とは、アルチュセールが言うように(255p)、ジャック・ランシエールの論文(15)を参照している。さらに、それはジャック・ラカンにまで遡る訳だが(16)、ここでは換喩的因果性が「換喩的」であることの意味を明らかにするだけでよしとしよう。一般に因果律においては、原因が結果に先行する。まずは換喩的因果性がそのような意味での因果律ではないことを確認しておこう。曰く、「この概念[換喩的因果性、引用者注]は、不在の原因の概念として理解されるなら、結果の存在ばかりを視野にいれるときには結果のなかに構造がまるっきり不在であるという事態を意味するには、見事なまでに適切である」(255p)。換喩的因果性においては、原因は不在である。にもかかわらず、「因果性」という術語が使用されているのは、次のような意味で因果的に機能するからである。原因は不在であるが、結果から遡行される限りで、因果律にしたが って原因は捏造される。このようにして「誤認された原因」が「不在の原因」に置換される仕方が「換喩的」だとされるのである。後述されるように、換喩的因果性はアルチュセール論文では「イデオロギー」の構造として定式化された。「『資本論』の対象」では、通常の意味での「歴史」が「換喩的」に誤認されて捏造されたものであるという視点を提出していたが、「イデオロギー」の構造で俎上に載せられるのは「主体」である。
 アルチュセール論文は言う。「イデオロギーは諸個人に呼びかけて主体にする」(17)。まずは「イデオロギー」という原因があって、「主体」という結果があるのではない点に注意したい。「主体」があるところには、「イデオロギー」としか呼びようがない「力」が遡及的に見出されると言っているのであって、その逆を主張している訳ではない。それでは、「主体」から見出されるイデオロギー効果とは何なのか。アルチュセールは、キリスト教的宗教イデオロギーを事例に説明している。命題風に言えば、「神は諸個人に呼びかけて主体にする」となろうか。キリスト教的宗教イデオロギーにおいては、「主体」として振舞っているものは、「神」に服従していることになる。すなわち、「主体」は常に(神のような)「大文字の主体」に服従する「小文字の主体」なのである。しかし、「神」がいて自動的に諸個人が「服従する主体」になるのではなく、諸主体が主体的に服従した結果、「神」は現前するのである(「≪ひざまずき、祈りの言葉を口ずさみなさい。さすればあなたは神を信じよう≫」77p)。アルチュセールにとって「神」は、結果として遡及的に見出されたにもかかわらず、あたかも最 初から諸個人を規定するかのような「誤認された原因」に置換されて再認された「イデオロギー」なのである。柄谷は以上のような「転倒」の論理をジグムント・フロイトにまで遡って見出したが、アルチュセールもまたフロイトにならって「イデオロギーは歴史を持たない」(61p)という命題を提出していた。この命題について議論する余裕はないので簡単な言及しかできないが、ここに言う「歴史」が歴史観における推移的因果性と表出的因果性を指していることは言うまでもない。「イデオロギーは歴史を持たない」とは、「イデオロギー」の構造が「換喩的因果性」という論理にしたがっているということをパラフレーズしたものとして理解される。いずれにせよ、以上の議論から、柄谷論文が「構造論的因果性」という術語で説明していた「転倒」の論理がより明確にできたと思われる。柄谷論文以降、「児童」の歴史性は了解事項とされているが、ここに言う歴史性は「児童は歴史を持たない」という非歴史的な前提において、「歴史」という「イデオロギー」が捏造される工程を指すものとして理解されなくてはならないだろう。

3 国家装置論
 しかし、浅田彰の論文「アルチュセール派イデオロギー論の再検討」(18)で指摘されているように、大文字の主体に服従する諸主体というモデルは前近代に属するもので、アルチュセール論文の問題の所在が近代にあることを考えれば、多少不整合である点は否めない。そこで、国民国家論を議論する予備的考察として、浅田論文を参照しつつ、アルチュセール論文における「主体」に近代的性格を付与しておこう(「国民国家は諸個人に呼びかけて国民(臣民)にする」ということ)。
 浅田によれば、「[近代以前の]sujetはそれぞれ戦士や農民など質的に異なったものとして成型され、異なったポジションに配属される」(62p)のに対して、近代的主体は「同型的で≪独立≫かつ≪平等≫な主体」(63p)である点に特徴がある。まずは近代的主体においては、それ以前とは違って、「大文字の主体」の位置を諸個人自らが占めている点を確認しておく。近代的主体が「主体的」であるとされるのは、それまで服従していた「大文字の主体」が不在だからである。しかし、ここで生じているのは、「大文字の主体」が内面化されたこと、すなわち、自らに服従する主体の誕生であった。このことは、近代においては「国民」という主体が必ず「臣民」として、服従する形で現れることを意味する(その逆は必ずしも成立しない)。決定的なのは、近代以前では、諸個人が須らく同一の「主体」として表象されることがなかった点にある。あらゆる差異を均質化して同じ「主体」が表象されるためには、そのような表象が「全国的」に流通するメディアの編成が必要なのは言うまでもなく、そうした条件が整うのは近代国民国家が形成される只中においてである(19)。ここに看取すべきは、「国民 」の文化的同一性が「同時代性」(共時態)の産出に支えられている点である。さらに言えば、エリック・ホブズボウムが明らかにしたように(20)、「国民」という新しいが故に不安定な文化的同一性は、過去に自らの起源を見出すことで、歴史的同一性を捏造する。だからこそ、アルチュセールはこのような推移的因果性(通時態)を批判して、それらが「換喩的」であることを示したのである。したがってアルチュセールは「歴史」の共時態と通時態の批判を通して国民国家の「イデオロギー」を明らかにしていたと言える訳だが、アルチュセール論文はこれから議論されるような国民国家論の構造的把握を議論する射程を備えていた。
 まずは、有名な「上部構造」と「下部構造」について簡単に確認しておこう。下部構造(経済的審級)における上部構造の決定の理論は、アルチュセールにとっては、所謂「最終審級における決定」を絶対化するものではない。たとえば、アルチュセールは「最初の瞬間にせよ、最後の瞬間にせよ、「最終審級」という孤独な時の鐘が鳴ることはけっしてない」(「矛盾と重層的決定」185p)と述べていた(21)。あるいは、「最終審級」の位置付け自体が、少なくとも晩年には変動していたことが窺える。曰く、「あらゆるものが「最終審級では」決定因(略)になることができる。(略)「最終審級」の概念、つまりその都度の具体的状況のなかでつねに「最終審級における」決定因になる物質性の移動の概念が見出されるのです」(『哲学について』48p)(22)。「経済」という「本質」が上部構造という「部分」に現前するといった表出的因果性とは無縁であることは言うまでもない。したがって、われわれの関心は、上部構造と下部構造が階層化された垂直方向での構造的把握にではなく、国家装置論として提出された水平方向での「地層的」把握に向けられる。
 アルチュセール論文において提出された国家装置論は、抑圧装置とイデオロギー装置の力学を明らかにして見せた。

 (略)統一された国家(の抑圧)装置は全体的に公的な領域に属しているのに対して、国家のイデオロギー装置(それらは明確に分散して存在している)の大部分は私的な領域に属していることが確認できる。(36−37p)

 抑圧装置とは、主に公領域に配分された学校などを指す。抑圧装置は、国家権力に集中しており、「暴力」によって抑圧する。それに対して、イデオロギー装置は、主に私領域に配分された家庭などを指し、国家権力に対して散在している。アルチュセール論文が決定的に重要なのは、イデオロギー装置なくして抑圧装置が十分な成果を収めることができないことを明らかにしたからである。従来は、国家の抑圧性と言えば、抑圧装置のそれを意味していた訳であるが、アルチュセール論文はそこに、イデオロギー装置という媒介を指摘したと言える。たしかに、国家権力は抑圧装置を通して暴力的に権力を行使する。しかし、そのような暴力的抑圧が永続するならば、体制は早晩崩壊するだろう。したがって、体制が維持されるためには、「上から」ではない「下から」の主体的な働きかけが必要不可欠なのである。すなわち、国民国家は私領域という内側から裏打ちされることでしか体制が維持されないことを知り尽くしているので、私領域に散在しているイデオロギー装置にこそ関心を向けるのである(「国家の抑圧装置は≪暴力によって機能し≫、これに対して国家のイデオロギー装置は≪イデオロギ ーによって≫機能している」38p)。
 冒頭で指摘した「上からの改革」と「下からの革命」が補完的関係にあるというのは、このような文脈においてである。われわれは、殊に近代日本の児童文学に関して言えば、抑圧装置の抑圧性にのみ目を向けていたばかりに、抑圧装置がイデオロギー装置に媒介されるという位相をあまり議論してこなかったように思われる。柄谷論文もまた学校という、アルチュセールの暫定的な分類で言うところの抑圧装置に関して記述していた。その意味で、イデオロギー装置に関する考察が欠けていたと言えなくもない訳だが、そのように結論するのには慎重でありたい。たしかに、柄谷論文は若松賎子訳『小公子』(1890−1892)に言及しておらず、「家庭」が孕むイデオロギーが議論の俎上に載せられているとは言い難い(23)。アルチュセール論文を参照したわれわれは、国民国家形成を抑圧装置とイデオロギー装置が二重化された運動として理解しているので尚更だ。しかし、柄谷は「重要なのは、それと同じ時期に、いわば反体制の側から「主体」あるいは「内面」が形成されたことであり、それらの相互浸透がはじまったことである」と指摘していた。この一文は、われわれの文脈では、抑圧装置とイデオロ ギー装置の相互侵犯を意味する。したがって、柄谷論文はイデオロギー装置の位相を見落としていた訳では決してない。柄谷論文においては、抑圧装置とイデオロギー装置が公領域と私領域に配分されるという単純な図式はもはや通用しないのだ。柄谷が「学校」を議論することで明らかにして見せたのは、むしろそのような前提そのものであったと考える。公領域と私領域という区分は自明なものなのか。アルチュセール論文もまた、十分とは言えないが、以上のような問題に気がついていた。

4 イデオロギー装置論に向けて
 アルチュセールは「純粋にイデオロギー的な装置など存在しないのだ」(39p)と述べていたが、だとすれば、抑圧装置とイデオロギー装置あるいは公領域と私領域という区分は、われわれが考えているほど自明なものではないと言える。したがって、アルチュセールが「国家はすべての公私の区別の条件」(37p)と言うことで意味しているのは、「公私の区別」が国民国家以前には(現在のような形で)存在しなかったということに他ならない。換言すれば、「公私の区別」こそが国民国家を議論する上での指標なのである。
 たとえば、「「家庭教育」のカテゴリーは、一八八〇年、当時の文部省の公用語としてあらわれ、その意味するところは、家でおこなう「普通教育」、つまり学校教育のもうひとつのかたちであった」と言う(24)。ここで、「家庭教育」という私領域さえもが国家によって公領域に組み込まれる形で準備されたなどという、ありふれた近代日本批判をしてもあまり意味がないばかりか、有害である。なぜならば、このような批判は私領域が公領域から自律していることを前提にしているからである。もちろん、近代日本の児童文学的言説を形成したものとして「女学雑誌」が存在しており、そこで提出された「家庭教育」が少なくとも先に指摘された近代日本の公教育制度を出自としない点は先行研究が指摘する通りだ(25)。石井研堂が「家庭」という用語に「家庭叢談」と「女学雑誌」という二つの起源を指摘したことは有名であるが(26)、だとすれば、先の指摘は「家庭叢談」のような、明らかに「家庭教育」を「学校教育」とカップリングさせている言説に向けられるべきなのもまた確かである(27)。しかし、石井の指摘に現代的意義を持たせるならば、「起源」が二つあるということの意味を、すなわ ち、私領域が公領域に組み込まれると同時に自律するといった「相対的自律性」を看取する必要がある。アルチュセールに即して言えば、抑圧装置とイデオロギー装置が公領域と私領域に社会配分されるという図式は傾向的なものであり、私領域と公領域の力学こそが問題なのである。さらに、公領域と私領域の相互侵犯が非対称であることは、イデオロギー装置が抑圧装置の条件であって、その逆ではないことからも窺えよう。私領域が公領域から相対的に自律した閉域として析出されることこそが国民国家形成の指標として議論されなくてはならない。もはや、われわれはアルチュセール論文の記述から離れて、イデオロギー装置論を、以上の方向から精緻化する方途を模索していることになる。
 まずは、アルチュセールの言う「主体」という概念を再検討することにしたい。国家装置論は「主体」の理論とパラレルな関係にある。というのも、アルチュセールにおける「主体」とは、個人の「内面」に収束してしまうような閉じられた問題系では決してなかったからである。別の言い方をすれば、アルチュセールにおいては、「内面」と「社会」は内部と外部のような対立を構成していない。誤解を恐れずに言ってしまおう。アルチュセールの言う「主体」は「内面」を持たない。どういうことか。
 ここで、アルチュセールの言う「主体」が「服従する主体」であったことを想起しよう。「服従する主体」とは、国民国家が用意した「臣民」と「国民」の関係が諸個人において折り畳まれた関係であった。留意されたいのは、ここには実質的には「内部」が存在しないということである。ドゥルーズにならって、以上にような関係を「褶曲」という地層的なモデルにおいて可視化しておこう。「褶曲」とは、地層が横方向の圧力によって歪曲されることを言う。ドゥルーズ曰く、「それはあたかも外の関係が裏地を作り、自己との関係を生じさせ、一つの内を構成しようとして、自らを折り畳み、折り曲げるかのようだ。内は固有の次元にしたがって、陥没し、また展開するのだ」(28)。このように「内面」は社会的関係が「褶曲」された領域である限りで従属的な訳だが、その主体性ないし自律性については柳内隆の次の解説が参考になる。「主体は「外」の力関係によって規定される一方で、「外」に囲まれた折り目[「内」を指す、引用者注]は、その奥深い所である程度「外」を遮断し、自己につながる自律した体系をもつ」(29)。社会的関係を生きた結果、そこに「内面」が相対的にせよ閉域化さ れて誤認されるのであって、最初から「内面」が存在している訳でないことが理解されよう(柄谷の言う「内面の発見」を所謂唯物論的に解釈すれば、以上のようになる)。
 同様のことが相同的に、私領域についても言える。私領域という「内部」は公領域という「外部」が「褶曲」された相対的に自律した領域であるものとして概念化できる(正確には、「褶曲」された結果、「外部」が「私領域」と「公領域」に分化する)。このように概念化されるならば、「私領域」あるいは「主体」が「公領域」に従属的であることを殊更に批判することが如何に的外れであるのかが首肯されよう。従属的であることの批判が看過しているのは、主体の服従性が抵抗の可能性そのものであるという点である。というのも、抵抗するには「外部」に接触していなければならず、「内部」が「外部」の「褶曲」として領域化されることは、抵抗の可能性の条件だからである。「主体」および「私領域」を純粋な閉域において議論することは、抵抗可能性の条件を横領することに他ならない(30)。主体の服従性という点において柄谷論文を批判するのであれば、主体性という服従性が抵抗可能性として徹底して議論されなかった点に向けられるべきだろう。
 以上の議論を経た現在、われわれは柄谷論文を如何にして引き受けるのか。柄谷論文が巌谷小波を議論しながら、『当世少年気質』(1892)に言及しなかったことを導きの糸としよう。『当世少年気質』は、「学童」を描いた作品である(31)。ここに言う「学童」は、「児童」と混同されてはならない。「学童」は「児童」のように「就学」という新しい慣習を内面化してしまってはいないからである。柄谷論文もまた、「学童」と「児童」を明らかに区別して使用していた(児童文学研究は、「児童の発見」を「子どもの発見」に回収することで「学童」と「児童」の差異に無自覚であることが多いように思われる)。

 日本の児童雑誌は、明治二十年代に、そのような学校教育の補助として、あるいは「学童」のために出現している。その内容を批判するまえに、学制がすでに新たな「人間」あるいは「児童」をつくり出していたことに注意すべきである。(185p)

 ここに言う「児童」とは、国家装置が用意した理念型である。当たり前のことではあるが、学校教育が輸入される時点において、学校化された「児童」など存在するはずがない。実際は「児童」という理念のもと、学校化されてはいないが就学だけはしている数多の「学童」が存在した。このような「学童」は確かに、「上からの改革」によって生み出されたように見える。ここで留意しなければならないのは、だからといって、「学童」は服従しているとは限らない点である。国民国家において、学校化されるということは主体化=服従化と同義であるのだから、学校化されていない「学童」は服従化=主体化に至っていないからだ。アルチュセールに即して言えば、「学童」においては国民国家形成という「褶曲」する「力」は十分に作用できていないことになる。したがって、「学童」に対して「上からの改革」であるとして、素朴に、服従性を指摘して批判するのは的外れである。しかし、柄谷が「学童」の前に「児童」を見ることを強調するのには、「学童」を「児童」から弁別して「学童」が「主体=人間」でないことを指摘する以上の、厄介な問題が絡んでいる。
 「学童」とは一体誰なのか(32)。「学童」が「児童」から区別されるとして、「児童」以前に「学童」は存在しない。われわれの多くは、「学童」がいて「児童」が結果するように考えがちだが、「学童」とは「児童」から遡行された「イデオロギー」であるからだ。われわれは、「児童」から遡行することで「学童」という「誤認された原因」を「発見」しているのだ。だからこそ、柄谷は「児童」以前に「学童」が「不在」であることを言うがために、「学童」の前に「児童」を見るべきだと強調したのである。
 しかし、「児童」を議論することで見えてくるのは、主体の服従性とその反作用であるところの抵抗可能性だけである。柄谷論文に対する不満は、国民国家形成という「褶曲」の力線から離れた運動が十分に議論されていない点にある(かろうじて樋口一葉に言及してはいるが)。われわれは、このような運動を議論するために、転倒であることを引き受けた上で、再度「学童」に着目すべきなのではないか。このことは、「民衆」および「あくたれ」に着目した、「十九世紀的世界」という副題をもつ安藤美紀夫の著作(33)が孕んでいた問題意識を継承することに他ならない。「民衆」や「あくたれ」という用語は、国民国家形成の力学が議論されていないため、そのままでは使用に耐えないが、「学童」とともに考察されるべき課題であると考える。安藤の問題設定を柄谷以降に引き受けるわれわれは、「児童」の従属性と抵抗可能性の力学を凝視すると同時に、「褶曲」の力線から離れた「学童」の運動に目を向ける必要があるように思われる(34)。
 
 (注)
1 柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社、一九八〇年、所収。引用は文芸文庫版(1988)に拠る。
2 「ユリイカ」青土社、1997年9月号、所収。
3 参照先は、『日本児童文学史を問い直す』(東京書籍、1995)、『児童文学の思想史・社会史』(1997)、『現代児童文学の可能性』(1998)。後述する関口論文は、『児童文学の思想史・社会史』の総論として位置付けられている。
4 「彼[フロイト、引用者注]の考えでは、幼年期に何らかの外傷体験があれば、神経症が生じるというのではない。その逆であって、神経症が生じている場合には、必ず幼年期に問題がある、というのだ。いいかえれば、彼は構造論的因果性として遡行的に「幼年期」を見出しているにすぎない」(179−180p)。
5 『マルクスその可能性の中心』講談社、1978年。
6 『<子供>の誕生』(杉山恵美子他訳)みすず書房、1980年。
7 日本児童文学者協会「日本児童文学」1962年12月号、所収。安藤論文については、佐藤宗子氏に御教唆いただいたように記憶している。
8 藤澤房俊『「クオーレ」の時代』(ちくまライブラリー、1993)参照。
9 文庫改訂版『アルチュセールの思想』(講談社、1993)を参照した。その他、『資本論を読む』の共同執筆者であるエチエンヌ・バリバール『ルイ・アルチュセール』(福井和美訳、藤原書店、1994)も参照されたい。
10 「現代思想」青土社、1998年12月号。
11 「思想」(岩波書店)掲載時の訳者は西川長夫で、後に『国家とイデオロギー』(福村出版、1975)に所収。ただし、引用は一部を除いて、柳内隆訳(『アルチュセールの≪イデオロギー≫論』三交社、1993、所収)に拠った。
12 宮川健郎『現代児童文学の語るもの』(日本放送出版協会、1996)第五章参照。
13 詳しくは、今村仁司『アルチュセール』(講談社、1997)参照。
14 『資本論を読む(中)』(今村仁司訳)ちくま学芸文庫、1997年、所収。
15 「『一八八四年の草稿』から『資本論』までの批判の概念と経済学の批判」を指す(『資本論を読む(上)』1996、所収)。
16 ランシエール論文の305pを参照。アルチュセールのラカンに関する言及については、「フロイトとラカン」(『国家とイデオロギー』所収)を参照されたい。アルチュセール論文においてラカン理論が占める位置については、拙稿「主体化という問題設定」(両輪の会「両輪」28号、1999、所収)で議論したので、そちらに譲る。
17 浅田彰訳(「アルチュセール派イデオロギー論の再検討」「思想」岩波書店、1985年5月号、所収、58p)参照。
18 前掲、「アルチュセール派イデオロギー論の再検討」。
19 詳しくは、ベネディクト・アンダーソン『増補 想像の共同体』(白石さや他訳、NTT出版、1997)を参照されたい。
20 ホブズボウム他『創られた伝統』(前川啓治他訳、紀伊国屋書店、1992)参照。
21 『マルクスのために』河野健二他訳、平凡社ライブラリー、1994年、所収。
22 『哲学について』今村仁司訳、筑摩書房、1995年。
23 拙稿「若松賎子訳『小公子』による「教育する母親」の言遂行的構成」(神戸大学国語教育学会「国語年誌」16号、1998、所収)参照。小波にける「家庭」の位置については、拙稿「仮想化された家父長制イデオロギー」(「国語年誌」17号、1999)で議論している。
24 中内敏夫「家族と家族のおこなう教育」(一橋大学「一橋論叢」1987年4月号、所収)55p。
25 「女学雑誌」研究については、注23の拙稿を参照されたい。
26 石井研堂『明治事物起源T』(ちくま学芸文庫、1997)「家庭の熟字」参照。
27 詳しくは、山本敏子「明治期における<家庭教育>意識の展開」(日本教育史研究会「日本教育史研究」11号、1992、所収)を参照のこと。
28 ジル・ドゥルーズ『フーコー』(宇野邦一訳、河出書房新社、1987)157p。
29 「アルチュセールの解読」(『アルチュセールの≪イデオロギー≫論』所収)201p。
30 「つまり、主体は歴史的社会的状況に規定され、権力のテクノロジーによって創られた「服従する主体」にもなれば、自己に関わり欲望の力線を引く「抵抗する主体」にもなる」(前掲、柳内論文201p)。
31 拙稿「明治二五年における学童/児童の言説編成」(日本児童文学学会「児童文学研究」30号、1997、所収)参照。
32 「子ども」を「サバルタン」として議論する傾向にある児童文学研究にとって、「サバルタン」という表象に見られる力学を顕在させたガヤトリ・C・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』(上村忠男訳、みすず書房、1998)は、議論されて然るべき基本文献であるように思われる。小論では示唆するに留まったが、「児童の発見」は『サバルタンは語ることができるか』に向けて拓かれるべきだと考える。
33 安藤美紀夫『世界児童文学ノート1』偕成社、1975年。
34 このような問題意識のもと、拙稿「『少年園』における表象としての「現実」と「地方少年」」(日本文学協会「日本文学」1998年12月号、所収)では、「地方少年」をめぐる表象の力学を議論した。アルチュセール論文では、「表象」には「イデオロギー」が誤認されて再認される機制を媒介するという重要な理論的地位があてがわれていたが、小論では紙幅の都合上割愛したので、こちらを参照されたい。

『児童文学研究』32号、1999年

(付記)本稿は、第37回日本児童文学学会における口頭発表をもとに作成されたものである。席上にて、御指導いただいた先生方に、この場を借りて、お礼申し上げます。
                       (めぐろ つよし/神戸大学聴講生)