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「子どもとはそもそもが物語作者といえる存在である。かれらの心の中には日々いくたの物語が生まれつづけており、その心の物語こそが、児童文学という物語世界の直接のよりどころとなる。いまこのことを一つの仮説として、児童文学の物語の成立の事情を以下にたどってみたい。それは、つまるところ児童文学の本質を『子ども読者』という視点から探ろうとかる試みであるということになろう」 これは冒頭の一節だが、本書の内容をもう少し詳しく紹介しておこう。 現実を物語の形で理解する幼年期の身どもたちの好きな作品、たとえば『ちびくろ・さんぼ』や『かいじゅうたちのいるところ』は、様々の要求を持つ「欲望体」としての子どもの自我の要求を物語的に充足させる本として機能しており、その要件として「ハッピー・エンド」「主人公の自立」「行きてのち帰る物語形式」の三条件をうまくクリアしている(この時期の子どもは、相矛盾する欲求を抱えていて、現実のなかで不満を感じて旅だつが、反面、現実の世界そのものの中で自分が受け入れられることを望んでもいる)。 幼年期のこういった物語を「内的ファンタジー」とするなら、次にくるのが『指輪物語』のような「拡大ファンタジー」である。後者は現実認識の進んできた子どもたちの物語で、かなり複雑な世界構造を持ち、魔法にも限界がある。そしてこのあとにくるのが『宝島』のような現実とかなり近い世界で展開される物語ということになる。 このように成長段階を追いながらの子どもの心と物語の関係を論じたあと、「少年の物語と少女の物語の違い」、および「子どもにとっての現実と虚構」を論じて第一部が終わり、第二部は、物語を構成している視覚イメージと聴覚イメージの話になる。 かなり乱暴なまとめ方だが、作者が意図しているのは「読者論」的な立場にたった児童文学の物語論である。「読者論」「観客論」としての批評が云々されだして長いが、児童文学の場合、この立場で論じるのはかなりむつかしい。というのも、一般文学や演劇の場合、もちろんモデルとなるべき「読者」あるいは「観客」を措定しはするのだが、それは作者自身と相当重なっている(つまるところ作者自身という意見もあるのだが)。それに対し児童文学の場合、指定すべき「読者」(子ども)は、論じる人間 (大人)と異なった存在である。そもそも一般文学などの場合は、「読者」を措定しておいて、その視点から作品にアプローチするわけだが、児童文学の場合、その「読者」の措定そのものがひとつのテーマになってしまう。つまりこの本は児童文学という物語文学の本質を探るという冒険にいどんでいるわけで、そこがこの批評の持ち味だといっていい。心理学や社会学など様々な立場からのデーターを紹介しつつ、子ども像を作り上げ、その子どもにとって必要な物語を論じ、またそこからそういった物語にひかれる子どもたちの心をさぐり、また子ども像を発展させていくという方法、この繰り返しによって、作者の提示する「子ども像」は深みをまし、広がりを持ってゆく。 繰り返しのゆるやかな波にゆられながら、深みにつれこまれる快さこそこの本のいちばんの魅力といっていいだろう。(金原瑞人)
読書人 1990/10/22
テキストファイル化 妹尾良子 |
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