ジリーの庭で

エレン・ハワード原作
寺岡襄:訳 ほるぷ出版 1989

           
         
         
         
         
         
         
     
 ジリーは、妹に自作の物語を聞かせたり、本を読むことが好きな、夢見がちな女の子。けれど彼女には胸の痛む秘密があった。体だけが大人になっていく戸惑い…父から異性をして見られ、深い関係に…。ゆれる少女の心と、解決への道を描いたアメリカの話題作。

 ハーパー家は定職のない父と、看護婦の母、それにジリーと妹のハニーの4人家族で、郊外の一戸建てに住んでいる。この物語はヒロイン、ジリーの告白の形で書かれている。
 庭のシャクナゲの木陰で、ジリーはハニーにシャクナゲの花でジュリアナ人形を作ってやり、自作の物語…シャクナゲの花のピンク色のガウンを着た妖精ジュリアナのお話をしてやる。その日、お隣の古い空家に夫婦と2人の女の子が引っ越してきた。母は「遊び相手ができていいわね」といったが、父は「そんなものいるもんか。隣近所は静かでありさえすればいい」という。ジリーには遊び相手なんてどうでもよかった。あの隠し事が始まってからは…。
 父母は経済的な理由でぎくしゃくしていて、少し前から、母は病院に勤め始めたが、ある夜、母が夜勤にいった留守に、父はジリーだけを自分の部屋につれていき、「仲よし」をしたがるようになった。テレビのちらちらする青っぽい光の中で、父は彼女を膝にのせ、しっかりときつく抱きしめた。それだけならいやではなかった。いやなのは、もっと別のあのこと…彼女の息をつまらせ、胸を痛めさせるあのことだった。父は「お前を傷つけたりはしない。自分の子を傷つけたりなんか誰ができるもんか」といったけれど…。ジリーは、そのことの間、ジュリアナのことを考えることにした。(私は真珠のようなピンク色のガウンを着て両足を絡ませて踊る美しい妖精の王女で、ジリー・ハーパーではないのだ)と。
 ジリーは深まっていく父との関係を、ハニーに聞かせるジュリアナの物語の中で、次のように語っている。
「…王様はけだものになって、ジュリアナを塔の中にとじこめて、一歩も出られないようにしました。… ジュリアナはつらい時には、いつも花の王国で遊び、おめかししてボールなげ、ポニー乗り、金の独楽などをして遊び、疲れると道化師や手品師も来てごきげんをうかがってくれる、だって彼女は王女様なんだもの。… かわいそうなジュリアナ、けだものは再び彼女をつかまえました。血走った目をし、その息は死の臭い。けだものはジュリアナをむさぼり続け、彼女は長い長い叫び声を上げ続けるのでした。…」と。
 一方で、ジリーは隣家の姉妹と仲よくなり、その健全な家庭生活を見て、自分の家の異常さに気づいていく。
 そんな時、二つのできごとが起こった。ハニーが父と医院へ行って帰ってきてから「彼がおしりを痛くしたの…」とぐずっている。母は「心配ないわ。予防注射のせいよ」といったが、ジリーは(父の手がハニーにも?)と気が気ではない。
 隣家との境の茂みの低い所にコマドリが巣を作り、卵を生んだが、親鳥はのら猫に襲われ、羽が落ちていた。その話を聞いた隣家の父は「あのコマドリは若くて経験がないからあんな低い所に巣をかけたんだ。巣はどこかへ移しても無理だろう。思い切って巣を叩き壊せば、シーズン中にまたヒナをかえせる可能性を残してやれる。ハッピー・エンドのためには、辛いことも、やらなきゃならない」と子どもたちを納得させ、実行してしまったのだ。
 それに勇気を得たジリーは、思い切って、ハニーのために父とのことを母に打ち明ける。… 父は別居し、3人に新しい生活が始まった。庭先にジリー・フラワー(撫子の一種)が咲き、コマドリのヒナもかえったようだ。

 手頃な分厚さでおしゃれな装丁のこの本を手にした時、私はこんなに重くてショッキングな内容を想像することができなかった。作者はこの苛酷な事件を、花や人形やコマドリや友情や癒しの場としての庭などでロマンチックに彩り、加害者である父親さえ憎まないという形で、少女の心を傷付けないような配慮をして描いている。このような事件の渦中にある少女にとっては「苦悩を一人で抱えこまずに声を上げて助けを求めなさい」という励ましと救いの書になるだろう。作者はその事を意図して、この物語の結末を殊更明るくさらりと描いて「こんなことがあっても大丈夫、前を向いて歩き出しなさい」と、力づけているように私には思える。そういう点でこの本は同じような問題に悩む少女たちへの応援歌だといえるだろう。

 だが、一見、ハッピー・エンドのようなこの物語は、私の心に不安を残した。なるほど、この物語の中では一応の解決を見た。児童文学として描けるのは、ここまでかもしれない。しかし、ジリーの中に父とのことは、いつまでも影を落とし続けるのではないか?
 彼女は父との行為の中で「ほんのわずかだったけど、たしかに時時1分かそこら、好きな感じになったの。そう、たしかにほんのちょっとだけ気持ち良く感じ…」といっている。そして、ジュリアナのお話の中の最後の方で、「…王様は悪い魔物に魔法をかけられていて、ジュリアナにさわったとたん、けだものになるのです。ある朝、目がさめると、王様もジュリアナも、けが一つなく、もとのままの二人で、王様は娘を愛に満ちたやさしいまなざしで見ていました。しかし。夜になると、王様はまたけだものになり…朝になるとまた、やさしい父さんに戻っているのです…」というふうに、父は本当は悪くないのだと、父を正当化しようという気配さえ見せている。…さらに、最後に父と別れて暮らすことになった時にも、「なんていったって私の父さんなんだもの、また会いたいと思う」とまで書いている。このことは、とても危険なにおいがする。まるで『エレクトラ・コンプレックス(父娘相姦願望)』のような。
 私はジリーに、この経験を乗り越えて本当の愛を見つけてほしい。相手から一方的に押し付けられる関係ではなく、心から互いに愛し合い、信頼し合い、大切にし合える人にめぐり会って、愛をはぐくみ、愛のある生活を営んでほしい。だが、ジリーが大人になった時、本当に愛する人を見つけて、すんなりと彼を受け入れることができるだろうか? そして本当にきちんと父と決別できるのだろうか?

 そんな私の疑問に、偶然手にした『永遠の仔』(天童荒太著 幻冬社1999年刊)という上下1000ページ近い大作が一つのケースを例示してくれたのでここで紹介したい。ちなみにこの本は1999年3月10日に初版、半月後に13版が出たという超ベストセラーである。実の親によって心に深い傷を負った3人の少年少女が、病院の児童精神科に入院していた。病院を抜け出した3人は嵐の夜、互いに助け合うことを誓う。…ヒロインの少女優希は父に強姦され続けていた。2人の少年も母親から心理的または肉体的な虐待を受け続けていた。霧深い霊峰での「聖なる事件」の後、それぞれ別々の人生を辿った彼等は、17年後、運命の糸に導かれるように再会した。3人は自立した大人としてそれなりの社会的な地位を得ながら、子どもの時に受けたトラウマ(心の傷)を十字架のように背負って生きねばならず、辛い過去が現在の生活と必然的に複雑に絡み合って、それが現在の行動を支配していく。そして異性を渇望しながら、いざとなると受け入れられなくて孤独に生きる道を選んでしまう。彼等の一人は幼い頃の辛い経験に引きずられるように殺人事件まで犯してしまうし、さらに他の2 人にもその生い立ちに根源的に関わる事件が起こってしまう。幼時、虐待を受け続けた人は、何らかの形で他人を傷付けないでは生きていけないのだろうか。何という辛い人生だろう。しかも彼等をそういう人生に駆り立てたのは、実の父親や母親だったのだ…。

 『ジリーの庭で』が少女のために書かれた一種のマニュアル本として意義があると考えると、『永遠の仔』は大人への警告書になっている。この二つの物語で共通なのは、父母の不和が原因で父親が娘に性的な関係を求めたことだ。しかし、決定的に違うことは、娘に打ち明けられた時の母親の態度である。ジリーの母親は娘の言葉を即座に信じ、賢明な判断を下して、素早く適切に行動した。一方、優希の母は事の重大さに目を覆い、表面を取り繕おうとした。そのため事件は深層化し、さらに重大な事件を惹起こしてしまった。すべてを失った優希がこれからどう生きていくかは、描かれていない。が、一読者としては、自立した職業を持ち、仕事の面で周囲の信頼を得ていた大人の女としての彼女の新しい門出に幸多かれと祈るばかりである。
 ジリーの方は、これから専門家のカウンセリングを受け、男と女の関係についてきちんと学ばねばならないだろう。母親の温い愛情も必要だ。また、この件に関してなんの反応も示していない父親も、人間として、一人の男としての生き方を学ぶべきであろう。そして、もし望めるならば、あるべき親子関係を築いていってほしい。子どもの頃どのように育てられたかがその人のその後の生き方に多大な影響を与えるとすれば、私たち大人の責任ははかり知れないほど大きなものだといえるだろう。

 ところで、このような事件は昔々のギリシャやローマの神話や、絵空事の世界の話ではない。むしろ、現実に蔓延していく傾向にあるという。次に、そのことについて考えていきたい。
 1998年度中に全国174か所の児童相談所によせられた児童虐待に関する厚生省の調査報告が1999年11月1日に発表された。それによると、1998年の児童虐待件数は6932件であったがこれは調査を開始した1990年度の約6倍で、1500件余も前年度よりふえ過去最高になった。虐待の行為者は実母55、1%、実父27、6%に達している。その中の396件が性的暴行による被害者だという。想像を絶する虐待が密室の中で行われているわけだ。この数は児童相談所に届けられて明るみに出た件数なので潜在的な実数ははかり知れない。第二、第三のジリーや優希が出ても不思議ではない状況が日本にも現実にあると考えられる。
 また、法務省法務総合研究所の1999年版『犯罪白書』によると、性的虐待や強姦の被害者の約6割が、「病気になったり、精神的に不安定になったりした」といい、異性に恐怖を覚えるようになった人は7割近くに達している。これは殺人や傷害致死の遺族らが感じている苦痛と同様に大きいことがうかがえる。
 このような被害を阻止するために、衆議院の青少年問題に関する特別委員会が試案を作成しているという。(1999年11月19日 毎日新聞)「案では、児童虐待の定義を明文化したうえで、医師などが虐待された児童を発見した場合の通告義務を明確に規定し、通告内容が結果的に誤っていても免責する条項などを盛り込んでいる。早期発見や、一時保護をめぐり、現行法では親権の壁などで児童相談所が有効な手段をとりにくいと指摘する関係者が多く、虐待問題が深刻化する中で国会がようやく本格的な対策に動き出した」ということだ。

 ここに中高校生の性認識に関する大阪教育文化センターの調査がある。これは1997年に府内の児童生徒約5000人を対象に実施した家庭調査の中から性認識に関する部分をピックアップしたものである。それによると、売春やテレクラを否定する傾向のある者は、性に関する情報源は授業中の性教育や教師などと答え、家にいるとほっとする、親との会話で落ち着くなど落ち着いた家庭環境がうかがわれる者が多かった。一方、売春やテレクラを肯定する傾向のある者には、性に関する情報源の主なものはビデオ、雑誌、友人、先輩などと答え、家庭内で男女の差別があると感じたり、親からひどい暴力を受けたことがあると答えたものが多かった。
 この結果を分析した大阪教育大学の奈良由美子講師は「あるべき性認識の形成に、性教育は直接的な効果がある。一方、性差別のない落ち着いた家庭環境を整えることで子どもたちは売春やテレクラに対して批判的な考えを持つようになる。これらのことが、将来、子どもたちにとって、あるべき家庭生活への指針ともなる」という。

 今、子どもたちのまわりには、テレビ、ビデオ、雑誌など、性や暴力に関する情報が溢れている。
 「性」はその人の生き方さえ支配することがある。今必要なのは親や教師や子どもたちを取り巻くすべての社会の、おざなりではない、きめ細かな「性」への配慮だと思う。(山本明子
たんぽぽ17号
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