ジャマイカの烈風

リチャード・ヒュ‐ズ 
小野寺健 訳/晶文社

           
         
         
         
         
         
         
     
 何事もなくいつのまにやら日がすぎることもあるものだが、一九九二年の後半はまさに荒れ狂うハリケーンをくらった感じだ。そんな中たのしみに聴いた講演「中浜万次郎のように話し、福沢諭吉のように読む」(慶応大学の川澄哲夫先生)は、たっぷりした波の寄せる浜べと揺れる船と漂流民に想いを馳せるに十分な内容だった。ことばの問題もふくめて、さまざまな事実としてのドラマがくりひろげられたにちがいない船の旅、嵐、海賊。

 これをきっかけに、もう一度ゆっくり読みたくて手にしたのは、「ジャマイカの烈風」である。原作はリチャード・ヒューズによって一九二九年に書かれ、翻訳は七○年に筑摩書房から刊行、後に晶文社から出版された「古典中の古典」と呼ばれる本である。記憶違いというのはおそろしいもので、海洋小説としての一つの魅力である海の上での嵐の場面?!には何度も息をのんだはずなのに、実際ハリケーンにおそわれるのはジャマイカに住む平和な英国人一家だったのには正直まいってしまった。が、今回、「闇の生物もはいだす」地震を出発点にハリケーンの襲来、こどもたちだけの船の旅(英国への)、幽霊船に襲われる拿捕事件(四人のこどもたちは虐殺のニュース)と実際にはこどもたちは生をえて海賊船で男の世界を生き延び、無事英国に奇跡的な生還を果たすというプロッ卜の中で、このハリケーンの位置には必然性があったことにも気付いて、物語としてのおもしろさにも再度脱帽だ。タイトルにもある烈風High Windの描写は、本当にすさまじく、我が身を斜めにしてしか読めないほどである。「稲妻が雨をつっきるように暴れ狂い、木から木へととびまわり、地面の上をはねま わるかとみると、轟音とともにほとばしった雷が、からだの芯までつっこんでくるような」「ブラインドは、まるで疲れきった象が外からよりかかってでもいるようにたわんでいる。…沈みかけた船に流れこむ海水のように、雨がはいり…壁の面をむしりとり、テーブルの上のものを吹き飛ばし」「風は、おしかえそっとしてみても、空気の流れというより、堅い岩のよう」にたけりくるう自然の流れにもう一つ重なるものがある。こどもたちの可愛がっている猫のタビーが、山猫の群れにおわれて嵐のただ中家に駆け込んでくる。毛を逆立て、絶叫する愛猫の姿に、こどもたちは「死を目前にした狂乱」の姿を見る。そして一瞬の後、この十三三匹の悪魔狩りの群れと、餌食は森に消えてしまう。確かこのハリケーンの場面を心に、「日本宝島」の海の嵐の場面が書かれた(上野瞭先生談)はずで、「おもしろい冒険もの」を求めて四国の小島を旅した作家へのエネルギーの伝播を感じて興味深い。
 こうして駆け抜けた嵐にも、愛猫の非業の最期にも胡散臭い象徴性など微塵もださずに、物語はこどもたちだけの船の旅にうつる。「悲劇を悲劇だと理解できるようになるまでには、経験をつまなくてはならない」とあるが、エミリーを筆頭にこどもたちは、実際には何よりもあのタビーを愛し、つぎにおたがいを愛していたので、ジャマイカの烈風を原因に英国へという大人の論理には、何の意味も見いだしていない。
 そして繰り広げられる物譜の事実は、想像をはるかに絶するものとなる。ジャマイカは過去にかすみ、英国は「神話」の霧に消え、こどもたちは現在にだけ生き、順応する。十歳のエミリーにとって、もっとも大事な事件は、自分が誰かということにめざめたことだった。体の動きを見守り、自分の皮膚に触れ、無限の時の中で特定のこの肉体に自分を納めた力について考える。実際この感覚は、私たちがふるくてなつかしい、淋しい時代に各々でおさめていたあの意識ではないか。また妹のレイチェルが、どんなところにいっても、「家をつくり家族をつくる」性格で、じぶんの想像力のおよぶものをすべてじぶんの財産だと主張する在り方には、六、七歳に特徴的というよりは、およそ人間の原型のひとつをみるおもいである。四歳のローラの複雑さとばくぜんとした存在を「乳児期の複雑な痕跡が残っているのはローラの内面だけで、外面的には、彼女は完全に子供になりきっていた」と表すヒューズのことばには、その数奇な放浪生活の日々でなにをしでかすかわからない深い「こども」を秘めた影の部分が感じられるのだ。
 大人では、海賊船の船長でありながら暖炉のある家に想いをはせるジョンセン船長が、心から離れない男である。人間を見通す年輪とは縁のないこの男は、十歳のエミリーにある信頼を寄せ、その接近にどぎまぎする面も持ち合わせ、四歳のローラの寝姿をみて、「いったいどうしてこんな蛙みたいなものが、あの大波のうねりのような女の体になるのだろう」と思う。このまちがいだらけの悲しい男は、たのんでおいた捕虜のオランダ人を格闘の末殺してしまったエミリーの殺人を、別の少女の罪とおもいこみ、そちらを海に投げ込んで処刑する。幸いこの少女も助かるので、ほっとするのはジョンセン自身というおかしさで、結局この船長はこどもたちを五体満足に別の船に移して、ようやくこどものいない男の世界におちつきをとりもどす。
 ヒューズばどにこどもを知る人をしらない。そこまで読者をしていわせるのは、次の会話が事実であり、同時に真実だからでもある。
「…子供たちは脅かされて何かをかくしているのでしょうか?しかし、なぜです?」
「…ジャンセンという男がとても好きだったことが明白だからですよ」
「子供というのは、それほど人間の性格を見誤るものでしょうか?」
「ありうると思いますね。…子供だって、そのくらいのまちがいはします」
「しかし、そんな…愛情をいだくなど、…」
「事実なのです」
 このあと法律家は事実に関心をもたなおこがずばり語られ、事実に関心をもつのは小説家だとヒューズは宣言する。そして最後に決定的なのはつぎの大人のことばである。こどもを証言台に立たせることについて「…子供たちは、絶対あてになりませんよ。あなたがいわせたいと思ってていると考えたことをいいますから。そして、そのつぎには、弁護士がいわせたいと思っていると考えたこともいいますよ−その弁護士の顔付が気に入ればね」 二十年前とくらべて、大人とも、こどもとも、自分ともつきあいが深まったぶん深くうなずいてしまった。(島式子)