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『ゆびぬき小路の秘密』を初めて書店で見つけた時、子ども時代どこかで読んだことのある様な気がして、私は思わず自分の記憶の図書目録を検索した。しかし、『ふくろ小路一番地』や『チョコレート工場の秘密』という書名は浮かんだが、「ゆびぬき小路」に該当する書誌はデータに入力されていなかった。それもそのはず、この作品は一九九四年四月、小風さちという邦人作家によって、福音館書店から出版されたばかりなのである。 『ゆびぬき小路の秘密』は新しい本だが、どこか懐かしい空間だった。この物語の舞台は一九六〇年代のイギリス、転校したばかりで未だ新しい環境に馴染むことのできない少年バートラムと、「ゆびぬき小路」に住む気難しい仕立屋のおばあさん(仕立屋ウェブスター)の二人が不思議なボタンをめぐって交流する<タイム・ファンタジー>の枠組みを持っている。懐かしさを感じたのはこの枠組みが子どもの頃から繰り返し読んでいる物語の構造と似ているからだけだろうか。 物語は少年が引っ越してきた日から始まる。「ゆびぬき小路」の古着屋マダム・ダンガルフの店で少年は仕立屋ウェブスターが仕立てた、着心地の素晴らしく良いグレーのコートを買ってもらう。コートには一つだけ、ボタン穴の数が五つある灰銀色に光るボタンがついていた。五つの穴に糸が星印に縫い付けられたこのボタンは仕立屋の店に代々伝わる由緒ある品で、実は一角獣のひずめでできている。仕立屋ウェブスターにとってボタンは自分の満足のいった仕事にだけつける印だったが、このボタンは実は過去の時間に逆上る不思議な力を持っていた。ボタンの数は全部で五つ、ボタンを全て集めると一角獣が復活する。ボタンを集めながら少年は仕立屋のこれまで生きてきた過去の歴史と、「ゆびぬき小路」を起点に町の歴史を知ることになる。 物語は過去の時間に逆上りながら、少年の「現在」である生活の時間に沿って進んで行く。バートラムが新しい学校で友だちになったマークという少年は、バートラムの買ったコートを以前着ていたデビッド・スペンサーの甥であった。デビッドもまた、このボタンの秘密を勘づき一角獣について調べていたが、今ではもう故人であった。また、マークの死んだ祖父でデビッドの父でもある産業資本家ロイ・スペンサーは、仕立屋の仕事の秘密を知るために「ゆびぬき小路」を訪れていた。とはいえ、ロイ・スペンサーの関心は一角獣ではなく、工場主として仕立屋の腕と製品の秘密をつきとめることにあった。機械による製品の大量生産を目指すロイ・スペンサーは仕立屋に次のように言う。 「時間というものは…縦に縦にと進むものなんです。つねに一列縦隊だ」が仕立屋の針を持つ手は、くるりくるり と、輪を描くように動きつづけた。<輪を描く>仕立屋の腕の動きは「ゆびぬき小路」の現在と過去が円環する時間を思わせ、ロイ・スペンサーの直線的時間観と対照的である。 『ゆびぬき小路の秘密』を途中まで読んでいて、私はふいに物語の結末が気になり、最後のぺージをめくった。すると、ライオンの像のある墓の前で、焚き火の立ちのぼる煙と共に消えてゆく一角獣を少年が呆然と見ている絵が目に入った。 やがて、バートラムはもう片方のかけらも取り出した。そしてやはり、炎の中に投げ入れた。ふたたび、ひづめの音が近づいてきて、そして遠ざかっていった。ふた筋の煙は、バートラムが見上げるそばで、あたかも鶯の羽のように、空へ空へとのぼっていった。 最後のページの文と挿絵から、エンディングでは誰かが死ぬらしいことが予想された。老人と子どもとの交流、そして老人の<死>という<別れ>(もしくは老人が死ぬことを予感させる終わり方)、そんな枠組みの物語を挙げてみたら、一体どれぐらいの数になるだろうか。恐らく、『ゆびぬき小路の秘密』も仕立屋ウェブスターが老衰で死に、彼女の火葬を思わせる煙と共に一角獣も少年の元から去って行って終わる物語なのだろうと私は推測した。 しかし、私の予測と物語の後半部の展開との間には<ずれ>があった。復活祭の前日、庭師と雪かきをしていたバートラムは、雪解け水の中に五つ目のボタンを発見し、仕立屋に報告するために「ゆびぬき小路」に走る。 …バートラムはだれかが追いかけてくるような気配を感じて、ふりむいた。グレッグ だろうか。だが、うしろにはだれもいなかった。バートラムは走りつづけた。…中略…そして、ゆびぬき小路に足を踏みいれようとしたときだ。バートラムは小路の石畳に足をとられたかとおもうと、いきおいよく転倒した。…中略…まれに見る、ひどいころび方だった。もしもこんな転倒から、バートラムを守ってくれたものがあったとすれば、まちがいなくグレッグのジャケットだ。大きなジャケットはまるで身がわりのように、バートラムの体が路上に打ちつけられるのをふせいでくれたのだった。 転んだ拍子に灰色のボタンは二つに割れ、バートラムは過去の時間から戻れなくなってしまう。そこで彼は、同じく一角獣に魅せられている浮浪者エイドリアンの過去の姿を見つけ、エイドリアンの時間を共有することになる。彼は仕立屋の仕事を世襲せず、窓ふきの労働者として貧しく生きていた。しかし、彼の住む「泥ひばり小路」の木造長屋は駅前の開発により取り壊され、彼はそれ以降宿無しになってしまう。バートラムはエイドリアンと共に過去の時間を送りながら、自分が生きている時間が再び来るのをひたすら待つことになる。物語の後半はエイドリアンの物語だ。これまで一角獣のボタンを狙う怪しい浮浪者のイメージを担っていた彼の悲しい末期を、バートラムと共に読者は見とどけることになる。物語の最後に予感された誰かの死とは、仕立屋ではなく窓ふきの浮浪者エイドリアンだったのだ。 普通、宝を狙う敵の死は味方側の勝利であり、ハッピーエンディングであると考えられる。主人公に敵対する怪しい者が障害者やジプシー、定職を持たない者のように社会的共同体の枠外の階級の者である物語を『グリーン・ノウの子どもたち』を一例に、過去の児童文学作品において幾つか挙げることができる。しかし、彼らは社会的共同体の枠外に置かれていたのであり、彼らを「悪」とすることの安易さを現在私たちは気がついている。 確かに、雪夜に浮浪者が凍死することは、イギリスでは平凡な事件なのかもしれない。しかし、『ゆびぬき小路の秘密』の読後感はやり切れない。例え、結末部で割れたボタンを火にくべ、つかのまではあるが一角獣を呼び出した少年の行為そのものが、エイドリアンへの供養と解釈したとしてもだ。 そして、少年はエイドリアンから離れ、自分自身の時間に戻るためにボタンを拾って走りだした過去の自分自身を追いかける。 バートラムは走りながら、声のかぎりさけんだ。もちろん、バートラムの声はヒューという空気のような音になって、のどから出ただけだった。しかし、おどろいたことにバートラム・アガズベリーは、ふと立ち止まると、こちらをふりかえって見たのだった。 転ぶ前にバートラムを追っていたのは自分自身であり、少年は振り返る自分を見、そして「ゆびぬき小路」に入ったところで自分に飛びつく。 …バートラムは自分におおいかぶさるように転倒すると、そのままゆびぬき小路の中にころがりこんだ。 まれに見る、ひどいころび方だった。もしもこんな転倒から、バートラムを守ってくれたものがあったとすれば、まちがいなくグレッグのジャケットだ。大きなジャケットはまるで身がわりのように、バートラムの体が路上に打ちつけられるのをふせいでくれたのだった。 <過去>の自分を<現在>の自分が追いかける。しかし、物語においては、既に少年は転んでいる。転んでからさらに過去の時間に行くことは、転ぶ以前のバートラムにとって予測できない<未来>のはずである。物語はここで二重の時間の矛盾に陥ってしまう。この二重にかぶさる時間を語り手は、<まれに見る、ひどいころび方だった。もしもこんな転倒から、バートラムを守ってくれたものがあったとすれば…>と、同じ言葉を反復することによって物語の時間を先に進めている。こうして、<文章>という単線的な糸で織られたテクストは、一回転してもとの場所に戻りさらに先に進んでゆくことになる。この物語の時間の進み方は、返し縫いをする糸の運びと針を持つ仕立屋の手の動きを思わせる。 偏屈な独身の仕立屋ウェブスターは、生涯一匹で放浪し山羊の髭と螺旋状にねじれた角を持つ一角獣と類似し、職人である仕立屋を象徴する一角獣は、工場主ロイ・スペンサーの墓の獅子像と対峙する。一角獣はスコットランドを獅子はイングランドの象徴であるが、「復活」と「力」のライオンといえば、ナルニア国物語のアスランを思いだすせいなのか、彼が悪人であったという印象を持つことはできない。工場主である彼は「何をつくるかではない、いくつつくるか」のある時代を生きた「時代の人」の一人なのだ。 悪役であることを予想されたエイドリアンが持っていた緑の布地は、仕立屋の持っていた布地と同じものであり、バートラムの拾ったボタンとは仕立屋ウェブスターがエイドリアンのために仕立ててやった服に付けたボタンだった。『ゆびぬき小路の秘密』は仕立屋と浮浪者の善悪二元論から成り立ってはいない。仕立屋と工場主で示された一角獣と獅子の戦いでもない。浮浪者も工場主も既に死んで眠っている。少年の体験した過去の時間への旅は善悪の戦いや葛藤というよりも、復活祭の前日にふさわしい<過ぎ越し>の出来事だった。しかし、作中で復活祭は単に地域行事のバザーであり、<死>については「とりあえず、死にたくないってとこかな」とあるだけで、ナルニア国物語の様な<復活>への信仰と希望はこの作品にみられない。 ところで、『ゆびぬき小路の秘密』には古馴染みのイギリス児童文学に登場するモチーフが織り込まれているのは明らかだ。少年と老婦人のタイム・ファンタジーといえば、当然『トムは真夜中の庭で』である。ロイ・スペンサーの霊廟のライオンにアスランを思い出したことを先に述べたが、少年の集めていたボタンの一つは古道具屋バダム氏の倉庫の「洋服だんす」の中で発見されている。どうやら図書室の書架と書架の間の通り道に、日本からイギリスへの「ゆびぬき小路」への通路はあるらしい。<ゆびぬき>というモチーフはホミリーのスープわかしや、ドードーがアリスに与えた「賞品」であり、過去の時間を探検した少年の唯一の食料が「チョコレート」であったことはランサムの愛読者ならにやりとできる。一角獣といえば『エリダー』かもしれないが、『鏡の国のアリス』にチェスと一角獣と獅子のモチーフを見ることができる。庭師グレッグのモデルはオールド・ノウのボギスではないだろうか。古着屋の女主人マダム・ダンガルフの名はもちろんトールキンのガンダルフのアナグラムだ。すると、独り言や吃り癖があり、一角獣のボタンの魅力に執着したまま死んだエイドリアンの姿 には、「いとしいしと」を追い求めて死んだゴクリの姿が透けて見えて来ないだろうか。 「そう、それでロイ・スペンサーは、すっかりあのコートを着なくなってしまったん だ。マダム・ダンガルフはね、そのことをとても残念に思ったんだよ。デビッド・スペンサーにコートをおばあさんのところへ持っていって、仕立てなおしてもらうようにすすめたのは、マダム・ダンガルフなんだ。」 ロイ・スペンサーの着なくなってしまったコートが仕立てなおされた様に、『ゆびぬき小路の秘密』とは今では古典となった(読まれなくなった?)上質の物語を仕立てなおし、小風さちが<灰色のボタン>をつけた物語なのではないだろうか。小風さちがつけたこの魔法のボタンは単純な円形のものだ。しかし、この<円>という形の象徴する意味は、この作品が善悪二元論の構図を越えようとした意図を現している。<円においてあらゆる対立は止揚される。あらゆる力は円の内に包括される。>(注) 小風のとった手法とは、正(一角獣、仕立屋)と反(獅子、工場主)を止揚する「合」として、<死>を知らなかった過去の自己を他者の<死>を見届けて「突き飛ばす」、または、古い自己(一角獣に執着するエイドリアンの姿は、もう一人のバートラムであるといえる)の<死>を過ぎ越して、新しい自己になる(ボタンに固執することをやめ、仕立屋の手に再び返す)ことによって、新しい環境に馴染んで行く少年の成長をスリーステップで語ろうとするものだった。 しかし、「正」としての一角獣側は丹念に描かれていても、小風の描いた「反」としての獅子は強さはあってもしなやかさに欠けていた(私たちはルーシーと一緒にアスランの柔らかな足の裏に抱きとめられた感覚を覚えている)。彼女のつけたボタンのイメージがどうしてもぼんやりとした<灰色>なのはそのためだ。善悪二元論を越える<灰色>ならば、白と黒の中間色と考えるよりも、白と黒の勾玉が組合わされた陰陽の符牒がくるくると回転している色をイメージしたい。一人の人間が善と悪の半分に別れてしまった『まっぷたつの子爵』が自分自身と決闘する場面の様に、白と黒が回転する交互のきらめきを見ることはできなかったのは残念である。 小風さちは既成の物語を仕立てなおし、善悪二元論の限界を克服することを試みた。しかし、そのスタイルとデザインは伝統的なラインを崩してはいない。一方、<アリス>を源流とした<夢>の枠組みを結末とする物語を解体し、白であるべき主人公の子どもが黒であることも同時に暴露して循環する、斬新でラディカルな現代のモードを作りあげた作品として、岩瀬成子の『あたしをさがして』(理論社一九八七年)を挙げたい。だが、字数上の制限により、『あたしをさがして』の秘密への挑戦は、時間と場所を移した別のラウンドに持ち越さねばならない。 (注)『象徴としての円』M・ルルカー 竹内章訳 法政大学出版局 一九九一年 『日本児童文学』 1995年3月号 (P52〜57掲載) |
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