三びきのコブタのほんとうの話

ジョン・シェスカ 文 レイン・スミス 絵

いくしま さちこ 訳  岩波書店

           
         
         
         
         
         
         
     
 小学校では「帰りの会」というのがありました。クラス単位の「終礼」みたいなもので、その日にあったことを子供どうしで報告しあいます。報告といっても「◯◯くんが××ちゃんに消しゴムを投げました」「掃除をサボる男子がいます」など、要するに公然のチクリ会。また時には大勢でイラズラっ子を糾弾して泣かしたりもします。しかし子供にそういういやらしいことをさせてた担任も担任だなあ。四年生のとき、私も一度やり玉にあがったことがあります。
 土建屋のボンボン息子が36色入りの絵の具というとんでもないものを持っていました。ある日の写生の時間のことです。みなてんでんばらばらに校庭にちらばり
、先生の目を盗んで遊びに入るというのどかな時代。たまたまボンの近くに陣取った私、他の男子とどこかに行って遊びに熱中しているであろうボン。そしてそこには36色入の絵の具の箱。コバルトブルー、エメラルドグリーン…… きらきらするような名前のついたチューブからは、いったいどんな色が出てくるんだろ。私はためらいなくボンの真っ白なパレットに次々と絵の具を出していきました。
 ひとしきり満足した私は自分の場所にもどり、絵の具のことなどコロッと忘れて図画に取り組んでいました。ところが、もどってきたボンが大騒ぎ。私は言うに言い出せず、しかし一番近くにいたので疑われ、そのまま「帰りの会」となってしまったのでした。
 「さんざん自慢しておいて、興味持つなっていうの? 黙って絵の具を出したことは謝るけど、ほんの少しだけだし、使えなくしたわけじゃないじゃない。そんなに悪いことかい?」と言える力はまだありませんでした。ボンの36色入りについて他のクラスメイトも気持ちがわからないでもなかったのか、幸い糾弾は免れました。でももしボンが善良な女子だったり、いたわるべき弱い子だったりしたら、私はどうなっていたか。
 『三びきのこぶた』『おおかみと七ひきのこやぎ』。どちらも被害者転じて残虐性を発揮するラストシーンが生臭い童話です。笑いながら狼を釜ゆでする末っ子のこぶた、やぎの一家の「おおかみしんだ」踊り。なんでそこまでって、ずっと疑問だったのですが、誰かがこんなことを言っていました。聞き手(昔は口承だった)の子供は、小さくて弱い自分に近いキャラクターのこぶたやこやぎに自己投影する。そこで「母親」との別離や自分の命を危険にさらした悪モノは、めっためたんに、こてんぱんに、見えなくなるまでやっつけてしまわないと、いつまでも子供の心に不安感が残るらしい。ふうん。
 でも子供は大きくなります。小さくて弱いだけの子供じゃなくなって、「母親」の外の世界でうそをついたり、意地悪な気持ちになったりしていくうちに、「狼の言い分」も気になってくるでしょう。(大林)




 ぼくが知っている「三匹のコブタ」の話は、レンガの家の煙突から侵入しようとしたオオカミがナベで煮られて三匹めのコブタのおかずになるという結末だった。ところが、ナベで煮て食うというのが残酷だからといって、オオカミが謝ったり反省したりしておしまい、という結末に書きかえられることがあるらしい。そういう絵本では、一匹めと二匹めのコブタもオオカミに食われることなくレンガの家に逃げ込むことになっている。でもそれではなんだか、つまらない。
 「目には目を」の復讐劇よりも、謝罪と仲直りというスジの方が道徳的で教育上
よろしいということなのだろうか。ぼくはべつにオオカミがナベで煮られるところを見たいわけではない。食う/食われるの関係のほうがリアリティがあるし、オオカミもコブタも生きているって感じられるのだ。オオカミが謝ったからって、そのあとオオカミとコブタが仲良くなるなんて信じられない。いらぬ教育的配慮のせいで、話全体がうさんくさくなってしまう。
 こういう教育的配慮というか、良識というか、ある種の「正しさ」をまっすぐに主張されるとぼくは混乱してしまうことがある。それは正しい、そのとおりかもしれない、でもなんだか受け入れたくない。この違和感は、反射的に感じたつまらないなあ、という気持ちがもとになっている。それどころか時には、恐いぞ、やばいぞと思わせるほどのまっすぐな「正しさ」に出くわすこともある。
 『三びきのコブタのほんとうの話』は、このむかし話をオオカミの側から語ったパロディだ。作者の二人は絶対に仲直りなんてできないオオカミとブタたちを登場させてくれた。あくまでも無実を主張するオオカミと、そろいもそろって口が悪くて憎たらしい顔のブタたち。「正しい」絵本では絶対悪いやつということになっているオオカミに、悪気はなかったと弁解させるこの絵本には、作者の「正しさ」への健全な「悪意」が込められている。ひねくれもののぼくには、小気味いい一冊だ。(トール)
「25才児の本箱」(大林えり子&澤田暢)