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僕は作者と同じ1950年生まれである。とかく世代論に傾く性癖のある僕ならずとも、この作品を読む上でそのあたりのことは抜かせないだろう。 この作品は上條のデビュー作で1987年の刊行だから、遅めの出発といえるだろう。児童文学作家のデビュー時期とその文学的モチーフとはかなりの確度で関連していると僕は思っていて、十代とか二十代早々でデビューする早熟型は、人生のあり様をメルヘンの形式で表現するか(安房直子等)、もしくは自身の子ども時代への否定的な思いをモチーフにする場合(さとうまきこ、森忠明等)が多く、二十代半ばあたりでは、ようやく大人になった自分として「子ども」という存在との出会いを経験し、それを契機にして児童文学に向かう場合が多いように思われる(岡田淳、村中李衣等)。そして、もう少し年齢的に進んでから、ようやく自身の子ども時代への肯定的なまなざしを獲得できるのではないか。そうした成熟型としては、宮川ひろが代表例だと思うが、上條の登場によって僕らの世代もそうした語り手を持つことができたと言えようか。 「昭和37年4月6日(金)/おいらは四年生になった」というストレートな書き出しは、しかし存外に戦略的である。読み進めていくとそれが次第に見えてくるしかけになっていて、「あたりまえだのクラッカー」等のテレビネタ、プレスリーの「ブルーハワイ」等の映画ネタ、そして池田首相、ケネディ大統領、キューバ危機等などの時事ネタが実に効果的にちりばめられている。 主人公は、八人兄弟の六番目という設定で、父親が建具職人で決して豊かではない家に生まれた彼の夢は、野球選手になること、そしてさんまをまるごと一匹食べることである。「貧しくともみんなが心を寄せていた時代、それに比べて現代は…」という論調は、巻末の大石真の解説がそうであるように、とりあえずの説明としてはまちがいないだろうが、それだけでは作者が前記のように意識的にこの作品を60年代グラフィティにした意味が見えてこない。 作者の登場人物たちへの視線は暖かいが、それは郷愁という雰囲気のものではない。むしろそれは「紹介」というスタンスに近く、当時の男の子の生活と意見を軸に彼の周囲をまるごと提示しながら、現代の子どもたちとの対話を成立させていこうとした、とでも言うべきか。 こうした作者の試みは、60年代という、ある意味では戦争以上に急速に社会を変えた時代に少年期・青年期を過ごした僕らが、自身の子ども時代のエネルギーを現代の子どもの可能性に重ねていく上での、確かな一歩だと、これは前記の「さとう・森型」への共感を長く批評のモチーフとしてきた僕にとっては、ようやく思うことができた、そういう風に思わせてくれた作品であった。(藤田のぼる)
テキストファイル化塩野 裕子
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