青春は疑う

山中恒/朝日文庫

           
         
         
         
         
         
         
     
 私がこの本をはじめて読んだのは課題本『赤毛のポチ』の流れから山中恒という作家を知ったときで、もう5、6年前になります。戦争児童文学は『ガラスのうさぎ』、『あのころはフリ−ドリヒがいた』『あほうの星』等々たくさんあるが、中でもこの『青春は疑う』は作者の鋭い観察眼と感性が伝わってきた作品でした。主人公五東透の見た戦中戦後。大人でもない、子どもでもない、ちょうど思春期の彼の目は世の中の矛盾、大人社会の虚偽を見逃してはいません。民主主義という今もってはっきりしない不可解なものを我々日本人が得るきっかけとなった敗戦そして戦後。その中にあってなお、この少年が自分、戦争、大人社会、民主主義を問い続けた。戦争をどの時期(年齢)で体験するかによってその人に与える影響は違ってきます。また年齢は同じであっても場所や環境によって体験は変わります。必ずしも体験が共通するとは限らない。とはいえ、彼の戦争、大人、社会に対するこだわりは私に強い衝撃を与えました。
 作者はその後、5部作として『ボクラ少国民』『御民ワレ』『撃チテシ止マム』『勝利ノ日マデ』『欲シガリマセン勝ツマデハ』を書き、更に補巻『少国民体験をさぐる』で6部作としてシリ−ズを完結させました。ここまで作者をこだわらせたものとは・・・・。 作者は、大人たちが起こした戦争に振り回され、大人たちの身勝手さに怒りを感じます。そして、そのことに対して、自分なりに収拾をつけたいと思っはずです。だれも言わなかったこと、書かなかったことを、書くことによって、当時の大人たちを告発したのです。

 子どもであったぼくら国民にとって戦争の最後(敗戦)はこういうものだったんだ・・・・・。
 天皇陛下は日本を民主国家にしろと詔書をくださったけど、あれはマッカ−サの圧力のせいなのかい?
 …よくわからないけど、学校の先生たちは口をぬぐって、昔から民主主義だったみたいな顔を、しているぜ。
 ……おとなたちだって、自分たちもだまされたんだ。
 悪いのは帝国主義の軍閥どもだっていっているけど、本当のところはどうなんだい?(中略)どうしておれたちは、疑うことをしなかったんだろう。どうして疑うという習慣がなっかったんだろう。……決まっている。おれたちがきは、ひよっ子は、疑うことを許されなかったんだ。おとなのいうことはなんでもきけと教えられてきたんだ。


 そんな時、教師による殴打事件が起きました。

 「ぼくらは、ついこのあいだまでは、がまんしていました。でも、もう軍国主義的なやり方ではこまるんです」
 「場合によっては告訴する用意もあります」
 ぼくのことばで、上野教師ははじめて事態をさとったらしく、さっと顔色をかえる。
 「どうしろというのだ?」
 「もうああいうことはしないと誓ってください。山路にもあやまってほしいと思います」
 「し、しかしだな。民主主義というものはだな、生徒が先生をばかにしていいというもんじゃないはずだ」
 「山路はばかにしたわけじゃないんです。たまたま、先生にそうきこえただけのことです。民主主義は、先生が生徒をなぐってもいいということではありません」


 軍国主義から民主主義に変わったといっても先生は相変わらず生徒を殴り、バスに乗るときは上級生が先です。

 ぼくらを思想善導してきたおとなたちが、敗戦になり、そのころ自分たちがやってきたことに対して、決定的な責任をとることもなく、相変わらず、それぞれの分野で指導者の位置に居すわりつづけ、現在なお、自信たっぷりに、教育やら思想善導やらを続けているということである。彼らのある者は、戦争中の自分たちの言動を命令に従ってやったことであるし、自分たちは忠実に仕事をしただけで、責められるべきは自分たちの上司であり、自分たちもまた被害者であると開き直り、またある者は、過去にこだわるのはめめしいことだと責任をとることを拒否し続けてきた。

 現実に戦時下で行われた個々の教育事象は、置き去りにされたままで誰も何も問われるすべもないことでした。

 すでに決着のついたことをむし返すなと迷惑な顔、また過去にこだわるめめしさを嘲笑するむきもある。しかし、自分たちが気づかなかったうかつさはあるかも知れないが、自分たちの過去が政治的に斬り捨てられ、しかも斬り捨てたものたちによって、現在の子どもたちに同じパタ−ンの状況が用意されているとなったら、迷惑だのめめしいだのといった、したり顔の第三者の独善的感想を気にしているわけにはいかない。(中略)最近、特に強く感じることは、敗戦時、極東軍事裁判で死刑にされた指導者を除いて、多くの指導者にとって敗戦は単なるパニックでしかなかったのではないかと思い始めたことである。彼らはかつての〈ボクラ少国民〉ほどに傷ついていない。自分たちがかつての〈ボクラ少国民〉にどのようなことをしたかを問題にもしていないということである。

 大人たちが起こしたパニックによって、傷つけられるのは、いつも、弱い立場にいる子どもです。子どもに対して間違ったことをしたり言ったりしても平気顔で、決して謝らない大人。こうした大人の言動に傷つき不満をもらす子ども。大人たちの身勝手な体質は、敗戦から、うやむやにされたままで、形を変えて現在でも存在し続けています。このことを私たち大人はどう受け止めていくのか?この本は私にそう訴えかけてきます。
 中山氏の講演を聞く機会がちょうどありました。そこでは、
「戦争中に書いたものについて反省した児童文学者は、まどみちおさん一人である」とおっしゃった言葉が印象的でした。
 まどみちおさん、といえば、あの童謡の作詞者です。

   ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね
   そうよ かあさんも ながいのよ

   ぞうさん ぞうさん だれが すきなの
   あのね かあさんが すきなのよ

 この幸せいっぱいの詩を書いた人です。子どもの心の原点がこの中にあります。

 引用文は『青春は疑う』より(吉村はるみ)
「たんぽぽ」16号1999/05/01