試合

ジャック・ロンドン

辻井栄滋訳・現代教養文庫

           
         
         
         
         
         
         
     
 あまりに若くしてダンテの『神曲』を読んで退屈し、一生読みかえすことのない人も不幸だが、サマセット・モーム、O・ヘンリー、スコット・フィッツジェラルド、といった作家の短編と若いときに出会わなかった人も、また不幸だと思う。ちょっとセンチメンタルで、アイロニカルで、数十ページのなかに人生をかいま見たような気にさせてくれる短編にいちばん敏感なのは、背のびしたくてたまらない若いときではないだろうか。
 ジャック・ロンドンのボクシング小説集『試合』も、そんな短編集だ。『野生の呼び声』や『白い牙』を読んだことのある人は、この作家が一流のストーリーテラーであることは十分に知っていると思う。ここに集められた四編の短編は、どれも面白いが、なかでも「ひと切れのビフテキ」がいい。 主人公は、借金をかかえた引退寸前の老ボクサーのトム。トムは空腹感に悩まされつつ、全盛時代にはタクシーでいった二マイルの道を歩いて試合場に着く。相手は、昔の自分を思わせる青年ボクサー。若さにものをいわせての激しい攻撃にたいして、トムはできるだけ動かず、ほとんど反撃することもなく、相手のパンチの威力をそぎながら、ひたすらチャンスをうかがう。 かつての若き自分と戦うトムの心の動きを追いながら、人生の哀しみを見事に写し取った名作。ぜひ若いうちに。(金原瑞人

朝日新聞 ヤングアダルト招待席 1987/10/04