シルマリルの物語
上下

J・R・R・トールキン著
田中明子訳 評論社 1982

           
         
         
         
         
         
         
     
 『シルマリルの物語』上下がトールキンの伝記(『JRRトールキン―ある伝記』ハンフリー・カーペンター著 菅原啓州訳 評論社)と時をほぼ同じうして翻訳出版された。我が国での“静かな”出現にはある感慨を覚える。1977年両書が英米で同時出版された時の大さわぎを思い出すからである。『指輪物語』に深くゆり動かされた大勢の読者はトールキンが六十年近く暖めている物語があると、聞き知り、その名The Silmarillionという美しい響きに胸がときめき、今か、今かと待ち望んでいたのであった。
 アメリカでは、発売前に、75万人が予約していたと日本の新聞までが大きく取りあげ、別の新聞では初版を百万部用意したことを報じ、現代文明への危機感が底にあると分析しながら、文学の書というよりは、大量出版という社会現象に注目したのであった。それから五年、熱心な読者は英語版を通じて『シリマリルの物語』が『指輪物語』をしのぐものではなく、大変よみづらく、おもしろくもないことを知った。『指輪物語』が成立する前の時代の物語で他の物語も含めて、トールキンの物語を育ててきた土のようなものであることを了解したのであった。
 子どものころから、ヨーロッパの、特に北欧の神話伝説にひかれ、独自の文字を創り出すことも含めて、トールキンの頭の中に、“中つ国”という世界が、少しづつ、形成され、成長し子どもたちに『ホビットの冒険』を語るころには、枝葉も出、花も咲く大木になっていたのである。「中つ国はわれわれの世界である」とか「すでにそこにあるものを記録しているのであって、考え出しているのではない」(『JRRトールキン』P113、115)といういい方は、トールキン文学の普遍性をよく語っている。『シルマリルの物語』の巻末についている系図、地図、詳細な索引を眺めていると、「『シルマリルリオン』を書きつつ、ある意味では彼は真実を書いていると信じていた」(P114)というのが、よくわかる。
 物語は、エルフがもてる知識と力と巧妙なる技のすべてを尽して作りあげたシルマリルという三つの宝玉の由来、悪のカモルゴスによる略奪、それをとり返そうとするエルフ族との戦い、それにまつわるさまざまのエピソードを、トールキンの死後、その息子クリストファーが、整理、編集したものである。したがって、完成したトールキンの神話大系にまではなっていない。恐らく、時々に書きためられた断片は厖大なものであろうし、折りにふれ、書き改められ、書き加えられ、細部にみがきがかけられ、あちこち気になるところや新しい真実がとり出されてきたことだろう。神話を創ることによって、準創造者(サブ・クリエーター)にならんとしたトールキンによって、神話を生きることが、人間として、堕落する以前の人間に戻り、人間の本来の姿、人間の全き状態になりうる至福への道であったのであろう。
 伝記の著者は、トールキンをごくごく普通の人として扱っている。現代の神話を創る人は、いわゆる英雄ではないかもしれない。しかし、神話を創るという仕事をたった一人で、やり遂げようとして、生涯をかけた一人の人の存在は、われわれのあこがれでもあり、神にもなりうるのである。未完の『シルマリルの物語』が死後発表され、それが、待ち望んでいたものというよりは、トールキン神話の源泉であり、材料集であったということは、根源を捉えぬく困難さとともに、すべてを統一する神になることの困難さにも、思い到るのである。(三宅興子)

図書新聞 1982/04/03(第297号)

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