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ハックルべリー・フインの名前を知る人なら、本書の題名にまず興味をひかれるに違いない。「それからの……」という題名が示す通り、本書は逃亡奴隷のジムを救い出した後のハックの冒険を描いている。『ハックルべリー・フインの冒険』(以下『ハック』とする)のアメリカ版の題名に定冠詞がついていないのはハックの冒険がこれからも続くことを示していると指摘した学者がいるそうだが、グレッグ・マシューズというオーストラリアの作家が続きを書いたのである。 マシューズはハックを賞金つきのおたずね者に仕立て、これにゴールドラッシュをからめて西部の大自然に生きるハックを描いている。セント・ピー夕ーズバーダの町でハックはダグラス未亡人との窮屈な暮らしに嫌気がさし、ジムと遠くへ逃げることを夢見ている。ある日ダグラス未亡人の家が焼けて未亡人とジムの家族が死に、図らずもハックとジムを束縛するものはなくなる。時は一八四九年、ゴールドラッシュが始まった年で、ハックとジムは金を掘りに力リフォルニアへ行こうと相談する。金捜しの資金をサッチャー判事から引き出そうと判事の家へ行くと、判事が殺されていた。そしてそこには死んだはずのハックの父親の足跡が残されていた。ハックは判事殺しの犯人にされ投獄される。お馴染みのトム・ソーヤの力をりて留置場を逃げ出したハックはジムと一路カリフォルニアへ出発する。 ここからマシューズのハックの始まりとなる。ここでマシューズはハックに、ハックの故郷であるミシシッピ川に別れを告げさせている。マーク・トウェインのハックとの別れである。「無実の罪をかぶったまま、おれは西へ出発しようとしている。でも、西には、インディアンや金塊や冒険が待っている。そう思うと、胸がどきどきする。おれはミシシッピ川にさよならをいって、ラバに乗った。」 舞台はセントジョーゼフ、プラット川、ララミー砦、サウス・パス、フンボルト川を経由しカリフォルニアまで北米大陸を横断し、はてはサンフランシスコまで移っていく。この間を五百ドルの賞金つきおたずね者となり、かみついたら離れないのでブルドッグとあだ名のある探偵に追われながら、ハックはジムと旅を続ける。 トムとサムンンとかジェフとゴリアテとか色々な偽名を使い、旅する教会に加わったり幌馬車隊に入ったり、インディアンに捕まったりするなかで、たくましい自然児だが根はやさしいハックの魅力が遺憾なく発揮される。インディアンとの交渉の際勇気をためすため頭上に的を立てて弓で狙わせたり、インディアンに捕まって殺されかけたブルドッグ探偵を助けたり、砂金掘りの資金を競馬でかせいだりである。ハックにはおたずね者であることが知れても助けてくれる友人が何人もできる。牧師の娘のグレースや幌馬車隊の案内人ウィン夕ーボーや賭博師のランドルフなど西部人気質の者達である。 セント・ピーターズバーグから延々一千キロを金を求めて大陸を横断するのは、ハックとジムだけではない。サッチャー判事殺しの真犯人のハックの父親とモグルのニ人組もそうだった。二人はサンフランシスコまで流れていく。サクラメントで運良く砂金を掘りあてたハックとジムも、ブルドッグ探偵の追跡をかわすためサンフランシスコへ渡る。ここで物語は大詰めを迎える。 ハックの冒険もさることながら、本書にはゴールドラッシュに関わる様々な人間模様や町のありさまがありありと描かれていて薬しい。売春しながら旅をする教会の一行、インディアン、砂金掘りの様子、サンフランシスコの泥棒成金など当時の風俗誌を読むようである。また、二重人格の葬儀屋が出てくるが、晩年になるにつれ本名のサミュエル・クレメンスと対立を深めていったというマーク・トウェイン自身と重なって興味深い。 『ハック」もそうであるが本書にも人種差別が到る所に顔を出す。黒人になぞ頭を下げられるかというハックの父親や黒人であるために仕事を追われるジム。差別は黒人ばかりでなくスぺイン人や清国人にまで及ぶ。 ゴールドラッシュをからめたために、本書は『ハック」よりも一段とスケールが大きい物語になっている。少々スケールが大きくなり過ぎてめまぐるしく移る舞台と次々に現われる登場人物に最初戸惑った私だが、アメリカの地図を広げじっくり読み始めたら、さすが脚本家をめざしたというマシューズの手になるだけあって、映画を見るようで一気に読み上げてしまった。劇中劇の「血まみれのフィン」も工夫を凝らしてある。『ハック』と同じく本書もハックの一人称で書かれているが、ハックの気持ちがストレートに伝わってきて読みやすい。楽しめるる冒険物語である。 しかし、「ハック」はやはりミシシッピ川あっての物語だと思う。本書がハックの持ち味をいかし『ハック』の書き方を踏襲し、いかに手に汗にぎる冒険物語になっているにしても、あくまでマシューズの『ハック』なのである。七月三十一日の「ハックとジムの日」は二人で捕鯨船の上で祝うのだと記されているが、まだハックの冒険が続くとしたら益々本来の「ハック」とは遠いものになるだろう。だが、マシューズ自身の「ハック」なら大歓迎である。(森恵子)
図書新聞1988/01/30
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