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E・B・ホワイトは、この作品を書くにいたったきっかけを次のように説明している。 「農場で動物を育てるのは考えもんだ。最後はみんな決まっとるだろう。ぼくも春子の豚を飼っていたんだが困ったもんなんだよ。一日一日愛情がつのってかわいくてね。」豚のウィルバーはこの中から生れ、くものシャーロットについては、「くもになんて興味のかけらもなかったよ。だが一度じっくり観察したら、これはやめられん。仕事好きで熱中している腕のいい職人とでもいうのかな。目指した時には一気に殺るが、その気がないときには見向きもしない。堂々としたもんだ。……十月のある寒い夕方、まゆのような袋をつくってその中に卵を生みつけているくもをみつけた。すばらしい出来映えだった。しばらくするとそこを立ち去らなくちゃならなかったもんで、ぼくはその卵入りの袋を大事に持って歩いたんだ。何週間後だったろう。小さくてほとんど眼につかないほどのくもの子どもたちが舞って出た。注」と作者の感動の一瞬を述べている。E・B・ホワイトは、ジャーナリストであり作家である。雑誌『ニューヨーカー』のユーモアコラム欄を担当し、大人の本として詩集"The Lady is Cold"(1929)等をだしている。子どもの本では1945年に『ちびっこスチュアート』、1952年にこの『シャーロットのおくりもの』を書き、最近作は、1970年の『白鳥のトランペット』である。 作者は『シャーロットのおくりもの』の素地になる農場の生活を熟知している。農場や納屋に訪れる季節を嗅ぎつけるほどである。そしてここに一つの世界が広がっていることをつかんで、作品を書いた。 1950年代前半のアメリカ児童文学に描かれた世界は、全く影のない一次元的な世界であった。『シャーロットのおくりもの』は、こうした世界にあって、一つのドラマを扱った点で評価される。 少女ファーンの手を離れたウィルバーは、気弱で臆病で、人の好いさみしがりやの豚である。そうでありながら、内にこもったり妙に陰うつになるわけではない。全く裏表のない人間像である。このウィルバーをやさしく理解するのが、くものシャーロットである。彼女には生きていく上で大きなプライドがある。労働にも人生にも、くものあり方が反映している。恐怖に満ちた表情で見守るウィルバーの前で、シャーロットは生きるものの血を飲む。その残酷さに顔をそむける豚に、生きるためにだとシャーロットは反論する。あまりにも単純に悪者としてくものシャーロットをとらえたウィルバーは、後に彼女から変らぬ友情を示されて感激する。その友情は、くもの巣の文字(「たいしたぶた」「すごいぶた」「かがやかしいぶた」)として、形になって象徴される。本当は、それを織りこんだくもがすごいくもであるわけだが、人々はその文字を神のおつげ――豚そのものの価値としてとらえ熱狂する。文字の一つ一つがウィルバーの命を救う手段となる。実にイマジナティブにくもの巣をとらえ、文字織りこみという発想にいたった点はおもしろい。作者が動物や昆虫の生態に興味をもち、その命を 慈しんだであろうことは明快である。また、そこは、自然の論理が生む感動的なことがらで埋めつくされた世界でもあろう。 誰もがそれに気付くと同時にこの物語中の動物の世界は、単に生態としてだけとらえられたものでないことを認める。"Written for Children"(1975)にも指摘されているように、シャーロットや子豚はまさに我々の一人だというわけである。かといって、教訓的寓話性をさぐるような勇み足は必要でない。ただこの方向で考えれば、生態を正確に把握することは論理にかなうが、いったん人間社会におきかえれば、安易に読みすごせない部分が生じるということである。クモの論理は弱者の論理ではない。人間社会の現実の様相を、シャーロットのように胸をはってにこやかに表現されたのではたまらないおもいがする。こうしてとらえだすと、後に語られるシャーロットの友情も色あせてみえるという具合である。しかもこの考えが底を流れるその生命を引き継いで、新しい生命となってゆく、自然の摂理と感動をうたった場面が、影のうすいものになるのはあまりにも惜しい。結局、この物語の核心をつくことになろうが、多いに疑問を感じた点であることを明記したい。くもの巣の文字として、豚の説明を視覚化するという非常に印象的な方法をとった発想は見事であるが、文字にしたことによって真実化されるという観念――この物語では人間どもは、まさしく信じて動くわけだから――にも問題を感じる。もちろんこ の人間像への皮肉がこめられているなら、愉快なのであるが。 少女ファーンは、動物たちがお互いに話す言葉を理解する。しかし、動物とファーンは言葉をかわさない。これがE・B・ホワイトの考えたファンタジーである。物語をリアリティに富んだものにするため、この要素を重視した作者は、ファーンの扱いをあくまでその成長面にあらわした。小さな豚を育てることに、その小さな力をすべて打ちこんだ八歳のファーンが、やがてその豚のことも忘れてしまう日がやってくる。動物のことばが人間社会の両親や友達の言葉より、心の中で大きな位置を占めた日がうそのようである。心配した両親の姿が滑稽なほど、ファーンの成長ははやい。納屋の中では、一つの死と一つの生が経過する。ウィルバーは確かな友情を得て満足である。シャーロットの想い出は、深く暖かなものとして心に残り、すべてが幸福のうちに物語は終りをつげる。表面的には甘いそよ風がほおをなでるのだが、果してそれにひたってよいのかどうか、とまどってしまう作品である。この作品全体をつつむ、あまりにもアメリカ的な心情論に警戒するためであろうか。内面では実に冷たい社会が、外面では智に富んだ助けあいにあふれているとすれば、その表面の美しさに感動してばかりはい られまい。(島 式子) 注 "Something about the Author"(1974)
世界児童文学100選(偕成社)
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