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『ウォーターシップダウンのうさぎたち』で、子どもにも、大人にも、たっぷりとしたストーリーのおもしろさを味わせてくれたリチャード・アダムズの才能に、袋小路をさまよっているような現状をさわやかに打破ったことから期待が集まっていたのである。子どもに語り聞かせたお話が出版され、読者が子どもから大人への広がりをみせるという、いわば、イギリス児童文学のお家芸ともいえる伝統の強さをまざまざとみせてくれたからでもあった。 第二作の『シャーディック』は、長さにして、『うさぎ』の二倍近く、上・下巻で千ページ弱の長編となった。物語は、古代を思わせる半未開民族による小国分立した想像上の世界を舞台にくり広げられる。山火事によって太古の森からあらわれ出た巨大なクマと遭遇する狩人、子ども好きなケルデルクが主人公である。ケルデルクは、そのクマによって命を救われ、クマを伝説の神シャーディックの再来と信じることから、呪術と秘密の島にわたり巫女たちと、クマにつきしたがう旅に出る。こうした動きがまわりの国々を戦乱にまきこみ、野心をもつ貴族によって、ケルデレクは、祭主王にまつりあげられてしまう。シャーディックの側につかえて、その存在から真理をつかもうとしても、政治がからみ、軍備費を捻出するために奴隷の売買を復活させたりせざるをえなくなっていく。そんな中で陰謀を企てたために捕まったある国の領主の反乱から、クマがゲルデレクのもとを逃げ出し、そのあとを追って苦しい旅に出ることになる。物語の後半は、王から一転して地をはいずるように奴隷を扱うゲンシュドに捕えられ、自らが許可した奴隷制度の悪用例のすさまじさの体験、同じように捕えられていた 領主の世継ぎとの出会いとつづき、子どもの奴隷が全員殺されそうになる土壇場で、瀕死のクマ・シャーディックが出現し、奴隷商人を殺し、一行をすくった上で、死をむかえる。ケルデレクは辺境の土地で知事として迎えられ、シャーディックの存在を通じてえた真理――「この世に不幸な子どもがいなくなれば、未来の世界も安泰なのです」(下・481頁)――を具現すべく家庭をもち、児童福祉中心の町づくりにはげんでいく。 人間がどこまでエゴイスティックに、また残酷になれるかを長々と語ったあとだけに、読者はハッピィエンディングにはほっとすくわれる。神秘的なお祭りの場面と、残酷な戦いの場面に見られるように、生と死、愛情と残酷などのコントラストの中から、人間の否定的な面をこれでもか、これでもかとくっきりと描き出してみせてくれるのだが、アダムズの冗長で、装飾過多の文体が、緊迫感と力強さを弱めてしまい、一気に読ませる勢いが欠けるきらいはいなめない。 「夢で空をとびながら、じっさいにはそんなことはできないとちゃんとわきまえている。にもかかわらず、その夢を受け入れて夢を生き、うそのわかっている行為の結果を真実として経験する」(上・66頁)ケルデレクを通じて、迷信と人道主義のいりまじったクマ信仰が到達したのは、奴隷を解放するということであった。「ほんとうの奴隷とは、完全なものになるいかなる機会をもうばいさられてしまった状態をいうのです。人にのぞまれず、こばまれ、うちすてられた人間たち――彼らこそ奴隷というべきです」「子どもたちの福祉こそ人間の神聖な義務である」(下・482頁)というあたりで、「神のほのお」(上・47頁)として子どもを視、未来を子どもを育てることから再構築しようとするアダムズの平凡といえばいえる結論が、たっぷりと悪と残酷を味わった後だけに、非常に有効にきいている。 子どもという社会の中心におかれたことのない存在を、社会を生き生きとさせるものとして、全体の中にとりこみ、むしろ、そこから出発しようとする視点は、子ども読者もふくめて、納得し、暖かい気持になり、次の世代へのメッセージとして説得力をもちえている。(三宅興子)
図書新聞(第312号)
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