シェイクスピアを盗め!

ゲアリー・ブラックウッド著
安達 まみ訳 白水社 2001

           
         
         
         
         
         
         
    
 シェイクスピアの時代について知っていることは何か、と尋ねられたら、あなたはとっさに何を思い浮かべるだろうか。
 筆者は日頃から活字に触れる機会が多いほうだと思うが、シェイクスピアの時代に関しては映画『恋におちたシェイクスピア』のイメージに強く支配されている。だが、ゲアリー・ブラックウッドの本書を読むと、この映画とは異なる角度から描いた演劇界の様子に出会うことになり、活字にも大きな可能性があるのが嬉しくなる。もっとも、シェイクスピア本人は英語でいう「カメオ・アピアランス」、つまり印象深い脇役でしかない。
四百年前のイングランド。両親の顔も知らないウイッジは、ヨークシャーの孤児院育ち。七歳でブライト博士の徒弟となり、博士が考案した速記術を仕込まれた。彼の転機は十四歳のとき、事業家のサイモン・バスが手下のフォルコナーを介して、ウイッジを博士から譲り受けたことだ。ウイッジは新しい主人バスから、ロンドンでシェイクスピアの『ハムレット』を速記するように命じられる。ところがせりふを手帳に書き取ることに成功したのに、肝心の手帳をなくしてしまう。劇場内で座員に捕まったウイッジは、とっさに演劇熱に浮かされた徒弟志願を装い、宮内大臣一座に入りこんだ。だが、台本を盗む機会を待って徒弟として働くうちに、バスの指図に無条件に従うことに疑問を感じはじめる…。
『シェイクスピアを盗め!』はまず、ウイッジの心の成長を描いた物語として読むことができる。孤児という設定は、乗り越えるべき親という存在に踊らされずに、自分の人生と向き合えることである。ウイッジはそれまで他人に誉められたことも、気づかってもらうこともなかったため、徒弟仲間から示された友情や思いやりを、素直に受け入れられなかった。その後、人間関係はたがいにつくりあげていくものだと知り、同時にその価値に目覚める。そのことが彼の判断の基準となり、人生の方向が変わる。こうした成長過程は、めまぐるしいテンポで進む痛快な筋立てのなかで、ごく自然に、また読者にもわかりやすく描かれている。
 わかりやすさは、子どもやヤング・アダルト向け文学のひとつの強みだと思う。また、歴史小説としても優れていて、この時代や演劇の舞台裏について楽しみながら学べる。そのためにアメリカでは児童文学として高く評価され、複数の団体から推薦されている。だが、こうした本を子どもだけの専有物とするのは、もったいない話ではないか。それに、すでに知識をもつ大人には別の読み方・楽しみ方が待っているはずである。
シェイクスピア演劇には「外観と実体」の問題がつきものだというが、本書では役作りが舞台の外にも及んでいることが描かれている。少年が女性の役をするという当時の演劇の事情から、ウイッジは化粧の仕方や立ち居振舞いを習う一方、剣さばきも覚えなければならない。だが、まもなく彼は「男らしさ」に縛られている仲間が、安易に決闘で解決しようとする現場を目撃する。また、男らしさ・女らしさにとどまらず、役になりきることが人生を変えることも。種明かしになるので詳しくは触れられないが、いろいろな人間が見かけとは違う役柄を演じているので、ご用心。なお訳者のあとがきは行き届いていて、実際にいた人物は誰と誰か、といった裏情報を得ることができる。(西村醇子)
週刊読書人2001.04.13