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児童文学の中で、最も不幸な子どもは、セドリック・エロル君(七歳)。父親はイギリスの伯爵の三男坊。アメリカ人女性と結婚しために伯爵の怒りを買い、勘当され、病死しています。反対された恋愛結婚によって生まれた子ども。お馴染みの、「児童文学は恋愛至上主義である」です。貧しいながらも母親と幸せの日々。靴磨きのディックや食料品店のホッブスと大の仲良し。イギリスの階級制度が大嫌いなホッブスは伯爵なんてやからの悪口をいつも言っていますが、セディはその伯爵の唯一の跡取りであることが判り、渡英することに。自己本位の暴君、ドリンコート伯爵はアメリカ人の母親を嫌い、セディだけを屋敷に住まわす。ろくでもない子どもに違いないから、欲しいだけのおもちゃを与え、使いたいだけのお金を与えれば、母親のことなぞ忘れわしに従うようになるだろうと。 さてここからセディの苦労話が展開していくのかといえばそうではなく彼の一人勝ち、無敵です。物語が彼をどんな風に紹介しているかをみてみましょう。 「生まれつき人なつっこく、思いやりふかく、自分がのぞむように、人にも気もちよくしてあげたいと思う、やさしい心」「親切と、無邪気なあたたかい感情とがあふれていた」とは語り手。ホッブスは「なかなかの気むずかしやでしたが、セドリックにだけは、ふきげんな顔をみせたことがありません」。イギリスから伯爵の代理でやってきた堅物の弁護士は「こんな育ちのよい、りっぱな子どもを、わしは見たことがない」。渡英の船客たちは、「だれも、この子どもに心をひかれるのでした。みんなセドリックがすきでした」。そして、敵役たるべき伯爵も最初の出会いで、「孫が、たくましく、美しい少年で、そのうえ、大きな犬の首に手をかけながら、こわがるようすもなく、顔をあげているのをみると、(略)伯爵の心のうちに、得意な気もちとよろこびとが、こみあげて」くるしまつ。 すべての人が彼を讃えるのです。どうしてこんなとてつもない事態が生じてしまうのか?それはセディが、何も誰も、疑うことを知らないからで、要するに無垢ということですね。そして、その結果、悪い人だった伯爵も、セディが想像してくれているようないい人のなろうとして行くのだと物語は主張しています。となると、周りの大人達がいつもいい人でいるために彼はずっと無垢である必要があります。つまりセディとは清濁合わせ持つ本当の世界を知ることを求められてもいないし、そうあってはならない存在なのですね。 これほど不幸な子どももありません。彼は近代の大人社会が作り出した「理想の子ども」という悲しいモンスターなのです。(ひこ・田中)
徳間書店 子どもの本だより 1999,03.04 第5巻 30号
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