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「ドテラのチャンピオン」 主人公のマモルは小学3年生。勉強は、ビリから数えたほうが早いが、足の速さと運動神経のよさは、クラスで一、二番だ。それに、兄思いで、そこぬけに明るくて楽天的だ。お母ちゃん子のマモルは、母に甘えたいのだが、それをサラリとかわす母との会話が実におもしろくてほほえましい。 おなじ兄弟でも6年生の兄の真一は正反対だ。勉強は良くできるが、運動は、まるでだめだ。でも落ち着いて物静かなのは、知性からでてくるのだろうか。 ほかに、カラバカというあだ名をもつ、兄と同学年の少年がいる。彼は、自分の名前も書けないぐらい勉強は出来ないが、スポーツは抜群で、運動会ではヒーローだ。ひどいあだ名をつけられているが、みんなから一目おかれている存在だ。 この対照的な三人が、運動会で、それぞれの個性を発揮して感動的な場面をくりひろげる。 運動会の前日、駄菓子屋のオクメババアが、゛必ず勝つチョコレート″を売りつける。マモルは、迷いながら、つい買ってしまうが、兄の真一も、ひそかに買っていたのだ。実は、あきらめながらも、勝ちたいという思いは、兄がだれよりも一番強かったのではないだろうか。 マモルと友達のトオルが、オクメババアの店から出ると学級委員の悦子に、買い食いをとがめられた。そこで、けんかになり、トオルが、悦子に「おまえ、去年はいてたブルマー、デカカボチャみたいだったぞ。あれだけはやめてくれよな、デカカボチャはよ」と、いじわるを言って、はやしたてる。運動会の当日も、トオルは「デカカボチャ」と、悦子のブルマーに、しつこく、こだわる。 実はトオルは悦子が好きなのだ。好きだという感情をストレートにだせなくて、かえって、いじわるをしてしまう。トオルは悦子の目を自分の方にむけさせたかった。いじわるや、いたずらをしてまでも。屈折した形で好きだということを、せいいっぱい表現しているのだろう。 しかし、悦子はなにも知らない。デカカボチャのブルマーしか、はけない悦子は、どんなに悔しく悲しかっただろう。トオルを恨めしく思ったにちがいない。この気持ちのくいちがいは、どうすれば解決するのだろうか。きっと永遠の課題なのだろう。 愛は人の心を癒すものだが、反対に傷つけることもある。悦子には、心の痛手を、はねのける強さを持っていると信じたい。 運動会は、主人公マモルが、実力を発揮する唯一のチャンスだ。喜びと期待で胸をはずませているマモルは、自分をカッコ良く見せるための作戦をたてた。スタートでわざと遅れて、ゴール前の20メートルで一気にトップに出る。最初からトップで走るよりも、見せ場を作るのだ。マモルは、いかに自分をアピールするかを考えている。しかし、それは、よほど足に自信がなければできないことだ。それを見事に成功させた。そして3年連続の1位だ。マモルは運動会に自分の全てをかけ、全エネルギーをそそぐ。 一方、兄は、運動会が大嫌いだ。だから、急に激しい夕立が降ってきた時は、うれしくて得意になって学識のあるところを、ひけらかす。 「いい雨だな。落語では、たらいをひっくり返したような雨、小説では、車軸を流したような雨、歌だと、遣らずの雨っていうんだ」「兄ちゃん、遣らずの雨って、徒競走をやらないっていう雨のことだろう」 この兄弟のずれた会話が、なんともユーモアがあっておもしろい。 兄の願いもむなしく、雨は、すぐにやみ、6年生の80メートル徒競走が始まった。兄は最初からなげてしまって、ゆっくりとビリを走っている。ところが、先を走る五人が水たまりで転倒し、団子状になって起き上がれない。これを見た兄は、急にすごい勢いで走りだした。ころんだ五人を追い越し独走態勢に入った。今まで必死で走ったことのない兄が、形相を変え、ゴール直前で体全体を前方へ投げ出し地面にたおれフィニッシュ! 一等だとだれも疑わなかった。だが、ゴールラインに30センチ程足りなかった。30センチ早すぎたフィニッシュ。その横を五人は走り過ぎた。 悔しさと恥ずかしさで胸が張り裂けそうだったにちがいない。なんと残酷なことだ。小学6年であじわう試練にしては辛すぎる事件だったと思う。 この場面で、成功するか、しないかは、これからの、この少年の生き方に、大きく影響するだろう。 しかし、人生には、このような理不尽な事が起こるものなのだ。我々は、これを乗り越えて生きていかねばならない。兄の真一も、これが最初のハードルだったにちがいない。 次に走るのは、カラバカだ。風邪をひいて高熱をだしている。それにもかかわらず、走るという。熱のためドテラをはおって、学校へやってきたが、泡をふいて医務室へ運ばれてしまった。それでもなお出番をまつ。スタートラインにたつと、ドテラをぬぎすて走った。しかし体力には限界がある。ふらふらになって、ついに力つきて倒れた。 まさにドテラのチャンピオンだ。 だが、もし今の時代なら、先生達は、絶対に走らせなかっただろう。本人の意志よりも、なにより安全を最優先させたであろうと思う。それは、本人の安全というより学校の安全を第一に考えたのかもしれない。熱があっても、一生懸命走ったカラバカもすごいが、走ることを許可した先生達にも拍手をおくりたい。教育について、いろいろ考えさせられる作品だ。 「星の巣」 父の死後、主人公のぼくと母と兄は、東京から大阪へひっこした。そこで「東京」とばかにされ、いじめられて友達もできない。 母は仕事に忙しく、中学二年の兄が小学四年のぼくの面倒をみてくれた。亡き父がくれた望遠鏡で、いつも二人は父の教えてくれた星をみる。それが兄とぼくの一番心安らぐ時だ。 ところが学校で、父の望遠鏡をばかにされた。 「5センチ? おもちゃやないか、それ」 8センチの望遠鏡を持っている子等に、はやしたてられ、深く傷つく。そんなぼくを励まそうと、兄は30万円持っているから10センチの望遠鏡を買おうと、うそをつく。 中学二年で、早くも、たくさんの重い荷物を、背負っている兄がついたうそだ。心の底に複雑な思いがからみあっていることだろう。 母に再婚相手がいた。その男は、針金みたいなメガネをかけ、細いヒゲをはやしている。いつもヒザの破れたジーンズをはいていた父とは全然違うタイプの人だ。それに、父が生きていたころは、父が母にしゃべって、母がうなずく役だったのに、今度は、まるっきり反対で、母が話しかけ、その男は、にこにこ聞いている。 この違いは、なんなのだろう? きっと、この男の人の前では、女になっていたのだと思う。夫である父には、妻の顔しか見せなかったけれども。 母は、父と死別して苦労を重ね、これから新しい人生を歩もうとしているのだ。 主人公のぼくは、父をこんなに早く忘れられる母が、理解できなくて苦しむ。ぼくは、父を、今もはっきり覚えているのに。だが、主人公も、もう少し大きくなれば、きっとわかるだろう。 兄弟の部屋は“星の巣”と呼んで、天井に蛍光塗料を塗った星座を作っている。そして、二人はそれを眺めながら、父をそばに感じていたのだ。 ある日、二人は、父が教えてくれたシリウスの連星をみるために、10センチの望遠鏡を、無断で学校から持ち出した。だが、途中で見つかってしまう。ぼくは、大切な父の5センチの望遠鏡も持ってきていたので、10センチと5センチの2つの望遠鏡を自転車に積み、一路、六甲へと逃げる。寒さと疲れで、音をあげそうになりながら。 兄が「おれたち、一人一人、自分で生きていかないといけないんだ。母さんは母さんで自分のしたいようにしていく。おれもおれで自分の道をいく。だから、おまえもひとりで生きていくんだ。そのために、最初にシリウスを見るんだ。死んだ父さんも見たはずのシリウスをな」と言う。 雪が降り、厳しい寒さの中、二人はシリウス連星を見た。青、白、緑、紫、赤とプリズムのように色を変える。まさに、アラビア人のいう「千の色の星」だ。 凍え死にそうになりながら10センチの望遠鏡をのぞく。そして、父の5センチの望遠鏡も設置した。目がかすんでよく見えない。雪片なのか、涙なのか。 この時、二人は少年時代から訣別して、自立への第一歩を踏み始めたのだ。 子どもは、どうしても大人の事情の中で生きていかなければならない。兄は苦境の中で自我に目覚め、自己を確立しようとしている。 ぼくもまた、きっと兄の後に続いて力強く生きていくだろう。そして、母の女としての生き方も理解出来る時がくるだろう。 「おかめさん」 中学三年の一郎は、父に反抗して、京都へやってきた。価値観が全く違うのだ。一流大学の学歴を重んじる父と、純粋に歴史を勉強したい一郎とが、真っ正面から対立してしまった。 家出するようにしてきた京都で、ジュンと名のるツッパリの女の子と出会う。そのために、一郎は、ジュンの暴走族仲間に、有り金をまきあげられてしまう。 途方に暮れて泣いている一郎に、悪いと思ったジュンは、自分の家に泊まるようにさそう。そこから、ジュンとの心の触れ合いがはじまる。 一郎は、自分とはなにもかも違う世界に驚く。 二人で、千本釈迦堂へ行く。そこは、京都で一番古い寺だ。本堂を建てた棟梁の妻“おかめさん”の像が立っている。本堂の1本の柱を切り過ぎて困っていた夫に、おかめは、他の柱も短くしたらいいと助言をし、失敗を救ったものの、夫の仕事に口出ししたことを恥じて自殺したのだ。なんとも痛ましい話ではないか。 一郎はおかめさんとジュンは似ていて、おかめさんが現代に生きていたら、意外とこんな感じかもしれないと思う。 なぜだろう? 貞淑なおかめさんとツッパリのジュン。表面は、全く違う。しかし、二人は、なにものにも妥協せず自分自身に正直だ。おかめさんは、自分の信念を貫くため、死ぬことによって生きたのかもしれない。ジュンもまた悩みながら、誠実に自分の道を探しているのだ。 本質のところで、二人は、似ているだろう。 しかし、もしジュンがおかめさんの時代に生きていたら、きっと、自殺せずに強く生きたように思う。 一郎は、本堂の前に立ち、深い歴史の流れを感じて、改めて歴史学者になろうと決意する。でも、大人の裏ばかりを見て来たジュンは京都の神社や寺が大嫌いだ。しかし、一郎が感じる寺への思いと、ジュンが言う寺とは違うのだ。ジュンに、それがわかれば、見方も変わるだろう。 一郎は、ジュンの運転するバイクの後ろの席に座り、ジュンの腰に手を回し、顔を背中におしつけて乗っている。甘ずっぱい匂いとバイクの振動で、一郎は、男の本能にめざめる。そして、ほのかな思いをいだく。 ジュンは「中一の時からヤンキーやってて、中二の夏に、ミノルにやられてしもてん。せやから私、ミノルのもんなの」と、告白した。一郎と同じ年齢のジュンが、早くも、こんな辛い出来事に出合っていた。自分の意志とは無関係なところで、事実ができてしまったのだ。 一郎は、ショックをうけた。好きな女の子だから、よけいに悩む。あんなつまらないミノルのものだと思うのはとても辛いことだ。 この本では、一郎は(ジュンはやられたんだ。やったんじゃなくて、やられたんだ)と思うことで胸の痛みが少しやわらいだと書いている。これは、まさに男の考え方だ。 ジュンが、ミノルを好きになり、お互いに愛し合ってやったわけではなく、一方的にやられてしまったんだと思うことで、一郎の気持ちは治まったわけだ。 しかし、女にとっては、これほど残酷なことはない。自分の意志が働いていれば、どんな結果になろうと納得がいく。しかし、自分の意志とは関係なく、男の欲望のままオモチャにされることは、耐えられないことだ。性の意識が男性と女性では大きく違うのだと改めて感じた。 一郎が東京へ帰る時、ジュンは、雨の中、トラックを止めようとする。でも、なかなか止まってくれないので、びしょぬれになりながら一郎のために頑張る。 そのひたむきな姿は、ジュンの本来の優しさだろう。おたがいに好きだったけれど、口にはださなかった二人。これが、ツッパリだったジュンの純愛なのだろう。 ジュンはきっと、一郎の旅立ちと、これからの自分の旅立ちとを重ね合わせているのだろう。 三作品とも少年達の複雑な心の動きが描かれ、自己確立へ向かっているところは、深く共鳴した。しかし、男性の立場からのみで書かれた場面があるのは、読者として気がかりだった。(黒石芳子)
たんぽぽ2000/04/01
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