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一 表象とイデオロギー 近代日本において「児童」は如何にして制作されたのか。柄谷行人「児童の発見」(1)が明らかにしたのは、「児童」とは国民形成を遂行するために賦与された新しい社会的地位の一つであるという点であった。「児童」は人々を「国民」あるいは「人間」として規定する「国民人間主義national humanism」(2)がイデオロギーとして遂行されるのに必要な社会的地位であるという訳だ。アルチュセールやフーコーがそれぞれに「人間主義humanism」を批判したのは(3)、「人間主義」という一見「普遍的」な価値体系が「国民主義nationalism」として立ち現れる点を看取していたからに他ならない。柄谷が「学制がすでに新たな「人間」あるいは「児童」をつくり出していたことに注意すべきである」(一八五頁)と指摘したのは、以上のような文脈において了解されよう。 しかし、当時の少年が制度的に「児童」ひいては「国民」として規定されたからといって、それがそのまま、少年たちによる体制の再認を意味する訳では決してない。体制の確立とその再認は相関しつつも、弁別されて然るべき問題だからである。近代日本における公教育体制は第二次小学校令(一八九◯)および第三次小学校令(一九◯◯)によって確立される訳だが、出席率を考慮した実質就学率が五◯%を越えるのは一九◯◯年代であることを考えれば(4)、統計上においても明らかに体制の確立と再認は乖離している。また、統計上、就学しているからといって、少年が学校教育に伴う価値体系を内面化した「児童」であるとは必ずしも言えないだろう(5)。公教育体制という「国家の抑圧装置」が制度的に確立するだけでは、少年が「児童」という社会的役割を自ら上演することにはならないのである。 ここで、アルチュセールが「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」で「イデオロギーは諸個人が彼らの存在の現実的諸条件に対してもつ想像的な関係の《表象》である」(六六頁)と規定して、次のようにイデオロギーを考察していたことを想起することは有意義であるように思われる。 したがって、イデオロギーの中では、諸個人の存在を統御する現実の諸関係のシステムが表象されているのではなく、諸個人と彼らがそのもとで生きる現実的諸関係との想像上の関係が表象されているのである。(七一頁) まずは、イデロオギーの遂行には、「諸個人の存在を統御する現実の諸関係のシステム」=「国家の抑圧装置」が確立されるだけでは不十分で、そのような社会が自らの「現実」として再認される過程が不可欠である点を確認しておく。次に、これこそが肝要であると考えるが、イデオロギーがそれとして内面化されるにあたって、表象作用が決定的に関与している点に留意したい。「表象representation」は常に指示対象=現実が欠如した代理表象でしかあり得ないというデリダの議論を参照するならば(6)、先のアルチュセールの考察は次のように翻訳することができよう。すなわち、代理表象でしかない「代行された現実」が自らの「現実の再現」であると諸個人によって再認されてはじめて、イデオロギーは遂行されるのだ、と。 そもそも、公教育体制が近代日本において確立を見るまでは少なくとも、公教育体制という「少年を統御する現実の諸関係のシステム」は自らが表象する指示対象=現実を有しているはずもなく、それは必然的に「代行された現実」という指示対象=現実を欠いた代理表象である他なかった。したがって、体制の確立とその再認という先の時差は、「代行された現実」が「現実の再現」として再認される内面化の過程を示しているものと考えられる。そこで本稿では、「児童」という社会的地位が少年によって占められる際の、以上のような表象作用=イデオロギー効果に着目したい。 二 地方少年にとっての「現実」 本稿が『少年園』というメディアを考察するのは、『少年園』が地方少年をアドレスとして指定しており、地方少年が「児童」という社会的役割を上演するにいたったイデオロギー効果を明らかにできると考えたからである。むろん、『少年園』における表象から少年たちの現実を復元しようとする意図から考察するのではない。むしろ、それが「現実の再現」ではなく、「代行された現実」でしかなかった点に着目したい。そもそも、『少年園』における表象の多くは「児童」という社会的地位に関する言説である訳だが、それらの表象が地方少年にとって「代行された現実」であることは言うに及ばず、それは誰の現実も「再現」していなかった。少なくとも、『少年園』が参照する近代日本の社会では、「児童」は新しい社会的地位であったと考えられるからである。しかし、だからといって、『少年園』というメディアが地方少年にとってリアリティに欠けていたことにはならない。なぜならば、『少年園』における表象は実際の現実以上に「現実的」であったと考えられるからである。ここに、メディアが現実を「再現」することなく、「(代行された)現実」を再生産する機制が指摘できよう。お そらく、それは「現実の再現」ではないが故に、「不在の現前」として過剰に、「現実」を表象することに成功したのである。メディアにおけるイデオロギー効果は、現実と表象の距離に比例して増幅されるのだと言える。以上のような視点から、『少年園』を考察していくことにしたい。 『少年園』は一八八八(明治二一)年一一月に山県梯三郎を主幹に少年園社から刊行され、政府による発行停止処分を受ける一八九五年にいたるまで、高等小学校から中学生までの読者層を開拓し(7)、創刊号は一万二千部に達したと言う(8)。発刊の主旨で「間接の教育」に寄与せんと宣言していることからも窺えるように(9)、公教育体制を補完するような言説に糊塗されていた。また、翌年創刊の『小国民』(学齢館)や『日本之少年』(博文館)など、後続の少年雑誌の雛型とされた。なお、「少年」というカテゴリーには「少女」も包含されていたと考えられるが、「少女」がジャンルとして明確に分節されるのは『少年世界』(一八九五年創刊、博文館)を俟たなければならないようだ(10)。『少年園』の誌面構成については、紙数の都合上、続橋達雄「『少年園』の巻頭論説」を参照していただきたい(11)。 『少年園』というメディアの性格は、創刊号の次の文章に集約されている。 東京は一天万乗の聖天子の在す所、政令法度の根源たる大政府の位する所にして、大学中学より諸技芸学術等の学校一として在らざるものなき所なれば、少年此地より出で来りて、其志す所を修めんとするは必ずしも非とす可きことにはあらねど、唯此地に来たらんには夫れ/\の覚悟あり、又夫れ/\の目的を着け、予め身を寄する場所まで考へ置かざる可からず。(「遊学の栞/はし書き」一巻一号、一八八八年一一月三日) 一連の「遊学の栞」から窺えるのは、遊学が既に所与の社会的事実であるものと措定された上で、これから「遊学」を志すであろう地方少年に具体的な諸注意を与えるという姿勢である。因みに、『少年園』に代表される遊学をめぐる表象は立身出世主義イデオロギーの質的転換―能力主義から学歴主義へ―を示しており、それだけで考察されるべき主題であるように考えるが、竹内洋『立志・苦学・出世』などの優れた先行研究があるので、指摘するに止めたい(12)。ここで留意されたいのは、「都下の少年と地方の少年を相会せしめ、是より長く懇親の端を開きて此の少年園の園友たらしめん」(「天長節を祝し開園の緒言とす」一巻一号)とあることからも窺えるように、『少年園』のアドレスに地方少年が指定されていた点である。 時代は多少下るが、「明治三一年当時の東京で学生が下宿生活するには、授業料は別にして、月に少なくとも一◯円程度は必要だったとされており」、「当時の公立小学校の教員給与の平均額、月一◯円程度とくらべてみれば、「上京遊学」が、いかに高くついたか」が首肯されよう(13)。おそらく、数多の地方少年にとって、遊学という表象は、自らが即座に体験することができる意味での現実性には乏しかったはずだ。にもかかわらず、『少年園』は第一回懸賞文の文題の一つに「遊学せる友に贈る文」を指定し、かつ相応の応答があった(14)。これは如何なる事態を意味しているのだろうか。もちろん、比較的裕福な子弟であると思われる『少年園』読者層を一般化することは許されないし、また、次に示すように、遊学が実現可能な子弟も少なからず存在していた。(ただし、入賞作品一◯件のうち、自らの上京遊学を明言しているのは次のものを含めて二件しかない。) 御存ジノ通地方ニハ思ハ敷学校無之候間卒業後ハ何レ貴兄ト同様ニ御校ヘ入学為致 呉候様父申居リ候間乍御手数入校試験規則及御地ノ景況並ニ遊学前ノ心得等精細ニ御 報道被下度願上候。 (広島県尾道高等小 校第四年生 高橋立吉/一巻五号、一八八九・一・三) しかし、次のように、隔絶した感のある東都に遊学した友が帰るのをただ待つしかない地方少年が包摂されていたところに、『少年園』における地方少年の境界的側面が示されていよう。 性聡慧頴敏、常に吾級の上位を占む、然れども君未だ以て足れりとなさず、而して君今余を棄てゝ山河遠く隔絶したる彼地に至らんとす、余が心誠に分袂の情に堪へざるなり。(略)君が再び故郷に帰るの日、(余は)君が父母兄弟と門閭に凭つて待たんのみ。 (秋田市 船木義三郎「中田君の東都に遊学するを送る文」六巻六七号、一八九一・ 八・三) むしろ、このような遊学の叶わない地方少年こそが『少年園』を講読し投稿していたという事態の方に、地方少年の「欲望」(15)が如実に示されているように思われる。そもそも、遊学を実現した者に向けた「遊学せる友に贈る文」のような発話行為は、遊学の叶わない地方少年のそれである限りにおいて、「現実の再現」/「代行された現実」を二重に表象している。後述するように、遊学という表象は、地方少年にとって「代行された現実」であるのみならず、いつか自らが辿るべき未来を先取りした「現実の再現」として再認されることで、彼らの欲望を再生産したものと考えられるからである。 『少年園』に一八八九年一一月から一八九◯年七月まで計一二回連載された小説「後悔」(作者不詳)は(16)、以上のような「代行された現実」/「現実の再現」という表象の二つの位相を端的に示している。その筋書は、「或山国」に士族の子弟として生まれた「余」が上京遊学を果たすものの、その夢虚しく挫折するというものである。「後悔」が象徴的なのは、それが『少年園』における「遊学」に関する表象をそのままに「再現」しているからである。しかも、その「緒言」は次のように記されていた。 啓者近者少年園第二五号を一少年の家に見る、中に地方の少年諸子へと題するもの あり、(略)殆ど余が経歴を写すものゝ如し。(略)余が経歴を記して之を少年に示さば、少年園記者の記する所は漫語にあらず、実に其例あるを知り、為めに余が覆轍 を踏まざるに至るものあるも亦知る可からずと、因て直に筆を起す(略) (「緒言」三巻二六号、一八八九・一一・一八) 「後悔」の作者が言及する二五号「遊学の栞/地方の少年へ」(一八八九・一一・三)の内容は、新聞広告の入学案内には誇大広告が多いので、上京するに際しては十分に注意すべきであるというものであった。「後悔」の作中人物たる「余」もまた新聞広告で見た「有為館」に入学するが、所持金を騙し取られるなど、惨憺たる憂き目に会っている。「後悔」の作者が述べるように、「少年園記者の記する所は漫語にあらず、実に其例ある」ことが例証された訳である。「後悔」の作者は、『少年園』における「遊学」をめぐる言説が単なる「代行された現実」などではなく、「現実の再現」であることを強調していたと言える。しかし、「後悔」は『少年園』同様に、遊学していない地方少年に向けてなされていたのであり、しかも、そのような地方少年にとって遊学についての情報源の最たるものは『少年園』自身であった。たとえば、「遊学せる友に贈る文」に寄せられた投稿文の中には、「近頃発行の『少年園』てふ雑誌に遊学のしおりとなん題する一篇ありて私供の心得に相成候ものと被考候」(17)や「『少年園』抔へ御散歩アラバ頗ル悦目洗心ノ興味モ可有之」のように『少年園』に言及してい るものがある。つまり、「後悔」のリアリティは、『少年園』を媒介に形成される以上、その発話行為が宛先たる地方少年に届けられる前にして既に、構造的に保証されてしまっているのである(同懸賞文入賞作「福島県尋常中学校生 志賀覚治」は、遊学を果たしたものの志半ばにして挫折するという「後悔」と同型の事例を引き合いにして、「嗚呼彼等ト雖モ豈ニ此ノ如キ結果ヲ予期シテ東都ニ遊学スルモノナランヤ」と遊学少年に注意している)。おそらく、菅忠道が指摘したように、「後悔」は『少年園』編集部による作品であったのではないだろうか(18)。少なくとも「後悔」に限って言えば、地方少年の「現実」は最初から横領されていたことが窺える。しかも、それは「代行された現実」であることを承知の上で、「現実の再現」であるかのように振る舞っていたという意味で、メディアと地方少年の現実と表象をめぐる転倒した関係を露呈させているのだと言える。 しかし、以上のような同語反復的発話行為が効力を発揮するのは、それが「読者共同体」(19)において遂行される限りにおいてである。たとえば、「遊学せる友に贈る文」入賞者の居住地―茨城2・岐阜1・鹿児島1・岡山1・長崎1・三重1・広島1・新潟1・宮城1―が地方少年に示したのは、読者共同体を媒介に形成される遊学をめぐる欲望そのものであった。つまり、地方少年にとってのリアリティは、その実現可能性以上に、遊学がどれだけ欲望されているのかを知ることで形成された。このことは、同懸賞文の文題の一つが「少年園を読む」であったことからも窺えよう。第三者の欲望を欲望するという以上のような行為は、それが読者共同体の只中で遂行される限りにおいて、予め自らの欲望であったかのように転倒されて再認される。殊に、それらの表象が自らの現実とは一致することがない地方少年だからこそ、未来において自らが占めるべきそれとして欲望されることになったのではないだろうか。いずれにせよ、地方少年にとっての「現実」とは本来的に外在的であり、にもかかわらず、先に示したような読者共同体における主体と欲望の関係―「諸個人が彼らの存在の現実的諸条件に 対してもつ想像的な関係」(アルチュセール)―によって、「代行された現実」から「現実の再現」として内面化されて再認されたように思われる。 三 「地方少年」という主体 「遊学せる友に贈る文」(一巻五号)に典型的に見られたように、『少年園』のアドレスは遊学を欲望する地方少年に向けられていた。しかし一方で、「故郷の母に寄する文」(二巻二四号、一八八九・一◯・一八)や「故郷の見をさめ」(五巻五五号、一八九一・二・三)などの、遊学した/する少年を対象とした懸賞文もまた存在している。その中でも、第二回懸賞文「如何にして暑中休暇を経過すべきや」(二巻一七号、一八八九・七・三)は、「故郷」(四巻四一号、一八九◯・七・三)、「旅行」(四巻四二号、一八九◯・七・一八)および「帰省」(六巻六六号、一八九一・七・一八)などの主題と系列をなして、次のようなメッセージを提示している。すなわち、「暑中休暇に帰省する少年諸子を送る」(二巻一八号、一八八九・七・一八)などに典型的に示されているように、暑中休暇に故郷に帰省する遊学少年は旅行するように奨励されていた。たとえば、「如何にして暑中休暇を経過すべきや」に入賞した福島県尋常中学校の生徒は、汽車で仙台に赴きボートで松島湾に遊ぶなどといったプランを示し、「果して然らば則ち今将に来るべき夏中休暇を踏過する余の行為をして、茲に少し予 画せしむるを得しめよ」と記す。ここで留意されるべきは、諸行為が「予画」として語られていることである。ここに、「代行された現実」と「現実の再現」の転倒された関係が正確に反復されていることが看取されよう。そもそも、『少年園』が「如何にして暑中休暇を経過すべきや」を懸賞文の文題にしなければならなかったのは、公教育体制を基準とした枠組が慣習として定着していなかったからであった。よって、『少年園』が提示する暑中休暇に関する言説は本来的には代理表象でしかなかった訳であるが、にもかかわらず、それらが未来において占められるべき規範として再認される過程を、先の発話行為自体が上演しているのである。さらに、「暑中休暇の見聞」(七巻七三号、一八九一・一一・三)では、故郷に帰省している期間が焦点化され、それまでのように帰省するまでの過程である旅行という主題は後退している。しかし、このような事態は、少なくとも「旅行の快楽」(宮崎八百吉/六巻六八号、一八九一・八・一八)を享受できる階層の遊学少年がそのような「代行された現実」を自らのそれとして内在化してしまったので、もはや殊更に提示する必要性が少なくなったことを告げて いまいか。つまり、ともに懸賞文の文題である「如何にして暑中休暇を経過すべきや」と「暑中休暇の見聞」のあからさまな相関は、規範が内在化される内面化の過程そのものを示しているものと考えられるのである。 以上のような内面化は、同時代の言説である巌谷小波『暑中休暇』に顕著である(20)。一八九二年九月に博文館から「少年文学」叢書第一三篇として刊行された『暑中休暇』は、冒頭に置かれた「校長の演説」が「遊泳」「復習」「端艇」「遠足」「旅行」「帰省」といった各論に対する総論になるような構成をとっている。『暑中休暇』が「旅行」「帰省」などの主題から構成されているところなど、『少年園』における言説と同型である。しかも、「校長の演説」が提示した規範としての「遊び」(21)をそのままに実演して見せる同著の少年たちは、「児童」という社会的地位を占めることになる地方少年の未来を先取りしていよう。しかし、このように提示された暑中休暇が一部の階層にしか実現されていなかったことは言うまでもない。『暑中休暇』に「都会中心に傾ける難もありて、一般地方少年の理想には、聊か遠ざかれる点」(木村小舟)が指摘されたように(22)、『少年園』においても次のような発言がなされている。 今の学生が二三夜がけの遠足の如きは、更に望まざる所、又望むも決して行ひ難き所なりき。況や今の端艇競漕の如き紳士的遊戯をや。(略)況や暑中休暇に及びて、居を遠く海辺若くは山間の勝地に卜し、海水温泉に沐浴して、此永日を消すが如きをや。これ僅に華族豪商の如き、此の斯学を修めて我身を立てんとするに関せざる天下無用の閑人が為す所たるを耳にせしに過ぎざりしのみ。 (「苦学」一二巻一四一号、一八九四・九・三) ここで留意されたいのは、旅行における「快楽」が明確に否定されている点である。たとえば、「余は断じて快楽を以て基本心に据え玉ふべきことを勧めんとするなり」(「快楽」二巻二四号、一八八九・一◯・一八)のように、少なくとも『少年園』の前期においては、必ずしも「快楽」は一概に否定されるべきものではなく、むしろ肯定的に言及されていたことは強調されてよい。たしかに「旅行の快楽」(六巻六八号)のように暑中休暇における旅行に快楽を見出だすような言説にこそ、「旅行の身体を健全ならしむる今更云ふを待たざるべし」(同上)といった、規律=訓練型権力が指摘されなければならないだろう(23)。しかし、「身体の鍛練」を主題とした言説において、「近来夏期の休業に乗じ、学校生活の旅行漸く流行の兆しあるは、予輩の喜ぶ所にして、(略)快楽の幸福を享くるに於て、皆然らざるはなし」(「第二回 身体の鍛練」一巻二号、一八八八・二・一八)のように言及されている事例を見れば、あきらかに「苦学」が断続した位置から発話されていることが判る。竹内洋は苦学の断続について「庇護型苦学」と「裸一貫苦学」を明治一◯年代と二◯年代にそれぞれ指摘してい るが(24)、だとすれば「苦学」という言説の登場は、『少年園』が裸一貫苦学生のようなそれ程裕福ではない階層の地方少年をも射程に入れたことを示している。そこで措定されているのは実質上、「遊学せる友に贈る文」(一巻五号)において遊学を欲望していた地方少年なのだ。この背景には、苦学しているにもかかわらず、あるいはだからこそ、就学者が自発的に不就学者に転じる可能性が少なくなったことが挙げられる(25)。「少年立志論」において「貧窮」が主題化されていることからも窺えるように(一一巻一三◯号、一八九四・三・一八)、『少年園』が措定する地方少年の指示対象は明らかに変容している。ここで問われなければならないのは、そもそも『少年園』がアドレスとして指定していた「地方少年」そのものが代理表象でしかなかったという点なのである。 だいいち、「地方」自体が近代日本における国民国家形成の力学の圏内において「発見」されて再編成の過程にあったことは、市制・町村制が一八八八年に、府県制・郡制が一八九◯年に公布されたことからも明らかだろう。「地方少年」もまた、『少年園』において「都下の少年と地方の少年を相会せしめ、是より長く懇親の端を開きて此の少年園の園友たらしめん」(一巻一号)と宣言された際に、国民国家形成のネットワークに編成されていたことは言うまでもない。『少年園』がアドレスとして呼びかけることで、「地方少年」は事後的に見出だされたにもかかわらず、懸賞文などを契機に形成された読者共同体を媒介にして、それが既に存在するかのような転倒が成立し、彼らは「地方少年」という発話位置を占めるに到った。「地方少年」はどこにも存在せず、ただメディアにおける同語反復的発話行為の只中においてのみ再生産されるのだと言えよう。以上のように、「地方少年」という主体こそがイデオロギー効果であったことは強調されてよい。少なくとも、『少年園』における「地方少年」が「児童」を「地」とした「図」としてのみ価値付けられていたことを考えれば、「地方少年」と は「児童」と同時に分節された社会的地位の一つであったと結論することができるように思われる。 しかも、「地方少年」という社会的地位を占めることは次のような事態を意味していた。「苦学」(一四一号)が「実際今日の少年諸子が戦場に出づるの期は、尚五六年の後に在り」として語る「日清開戦に就て日本少年の覚悟」(一二巻一四◯号、一八九四・八・一八)の次号での巻頭論説であることを考えれば、苦学することこそが「児童」ひいては「国民」であることの最良の証しであるのだとの転倒がこの時期に起こったであろうことは想像に難くない。換言するならば、「児童=国民」という社会的地位を占めることができなければ、「非―児童=国民」として排除されるような言説空間が確立したのである。「地方少年」という周縁的地位は、そうであるが故に、彼らに「国民/臣民」となることを強く要求する(その欲望は彼らが自らを措定する周縁性の度合いに比例している)(26)。『少年園』に呼びかけられた「地方少年」が自らをそのように同定するような振舞い自体が既にして「児童=国民」という社会的役割を上演する契機として機能する言説空間こそが、国民国家のそれなのである。もちろん実際に、苦学というエートスが性別・地理・階層による差異を均質化して内面化されるの は、少なくとも一九二◯年代を俟たなければならないようだ(27)。だいいち、「地方少年」という呼びかけに対して応答するか否かは本来的に偶有的である他なく、『少年園』の読者層が皆「地方少年」として主体化=服従化されたなどと主張するつもりはない。本稿はあくまで予備的考察にすぎず、今後は「地方少年」ないしは「児童」の主体化し尽くされることのない局面にこそ焦点化したいと考えている(28)。いずれにせよ、「地方少年」という社会的地位を占めることが既に「児童」を媒介とした以上のような主体化=服従化という国民形成を内在させていたのだとすれば、「地方少年」という問題設定は国民国家形成におけるイデオロギー効果を考察する上での研究視角たり得るのではないだろうか。 (注) 1 柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社、一九八◯年、所収。なお、引用は講談社文芸文庫版(一九八八)に拠る。 2 「国民人間主義」については、鵜飼哲「国民人間主義のリミット」(『国民とは何か』 河出書房新社、一九九七、所収)を参照されたい。 3 ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」(『アルチュセー ルの<イデオロギー>論』柳内隆訳、三交社、一九九二、所収)およびミシェル・フーコー『言葉と物』(渡辺一民他訳、新潮社、一九七四)などが典型的である。 4 天野郁夫『学歴の社会史』新潮社、一九九二年、一三六頁、参照。 5 柏木敦「就学の形成と学校観の位相」(『日本の教育史学』第三九集、一九九六、所収)参照。 6 ジャック・デリダ『声と現象』(高橋允昭訳、理想社、一九七◯)参照。デリダの言う「代補の論理」のうちの「補足」的機能こそが「地方少年」という表象作用の決定的側面である訳だが、紙幅の関係で割愛することにした。 7 続橋達雄『児童文学の誕生』桜楓社、一九七二年、二四―二五頁、参照。 8 木村小舟『少年文学史 明治篇上巻』童話春秋社、一九四二年、二四―二五頁、参照。 因みに、『少年園』二五号(一八八九・一一・三)では一万八千部、四九号(一八九◯・一一・三)では二万部に達したとそれぞれに称されている。 9 「発刊の主旨を述べ先ず少年の師父に告ぐ」一巻一号、一八八八年一一月三日。 10 飯干陽「「少年世界」の少女欄」(『白百合児童文化』V、一九九二年、所収)参照。 11 注7、参照。 12 竹内洋『立志・苦学・出世』(講談社現代新書、一九九一)の他、天野郁夫『試験の社会史』(東京大学出版会、一九八三)などを参考にした。 13 天野郁夫『学歴の社会史』新潮社、一九九二年、一二三頁。因みに「遊学生ノ為ニ惜ム」(内田馬太郎/五巻五◯号、一八九◯・一一・一八)には「彼ノ東京市中神田区ノ如キハ、(略)然レドモ其下宿料概ネ五円ニ出デズ、之ニ書籍文具料ヲ一ケ月平均三円トスルモ、尚ホ二円ノ剰余アリ。(假リニ、十円ノ外ニ送金ナシトシテ)」とある。 14 文題別応募数は「雪中行軍記」=二三七篇、「遊学せる友に贈る文」=一七二二篇、 「少年園を読む」=二四◯三篇とされ、居住地別応募数の上位は、東京府の四四八篇を 筆頭に、長野県=三一五篇、福島県=二九七篇、熊本県=一八◯篇、長崎・岡山・新潟県=各一七八篇のように公表されている(「少年園懸賞文小言」一巻五号、一八八九・一・三)。 15 「欲望」が第三者を媒介にしてしか生成しない点については、ルネ・ジラール『欲望の現象学』(古田幸男訳、法政大学出版、一九七一)を参照されたい。 16 同時代の遊学に関する言説については、酒井晶代「もうひとつの<東京遊学案内>」 (『児童文学研究』二九号、一九九六、所収)に詳しい。 17 投稿者は「茨城県尋常師範学校附属小学校高等科第四級 小川清子」だが、このように『少年園』には少なからぬ数の女生徒からの投稿が見受けられる(たとえば、第三回懸賞文「故郷の母に寄する文」(二巻二四号、一八八九・一◯・一八)は女子限定のもので、三一八篇の応募があったという)。『少年園』における「少女」というカテゴリーの分節については、久米依子「メディアにおける<少女>の成立」(『目白近代文学』一一号、一九九四、所収)を参照されたい。 18 菅忠道「明治期の児童雑誌」(『文学』岩波書店、一九五六年一二月)参照。 19 ロジェ・シャルチエ『書物の秩序』(長谷川輝夫訳、ちくま学芸文庫、一九九六)参 照。読者共同体の「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン『増補 想像の共同体』白石さや他訳、NTT出版、一九九七)への転位は、不十分ながら、拙稿「若松賎子訳『小公子』による「教育する母親」の言遂行的構成」(神戸大学国語教育学会『国語年誌』一六号、一九九八、所収)で考察している。 20 拙稿「明治二五年における学童/児童の言説編成」『児童文学研究』三◯号、一九九 七年、所収。 21 前田愛が「遊びの中の子ども」(前田愛著作集第三巻『樋口一葉の世界』筑摩書房、 一九八九年、四◯六頁)で、校長が提示したのは「身体の鍛練や知識の拡大という目的がじつにはっきりしている」「学校教育のなかで公認されている(略)山の手型の新しいアソビ」であると指摘している。 22 前掲、木村『少年文学史 明治篇上巻』一六一頁。 23 ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(田村俶訳、新潮社、一九九七)参照。 24 竹内前掲書(一三九頁)によれば、比較的裕福な階層の庇護型苦学と、東京に人的ネットワークがなく自立自活せざる得ない裸一貫型苦学とは断続していると言う。 25 しかし、一方で、児童労働という外在的な理由による不完全就学が存在していたことは言うまでもない。この点に関しては、清川郁子「近代日本の農村部における義務制就学の普及」(森田尚人他編『教育学年報2 学校=規範と文化』世織書房、一九九三、所収)参照。 26 これが「下からの権力」(ミシェル・フーコー『知への意志』渡辺守章訳、新潮社、 一九八六)であることは言うまでもないだろう。 27 大門正克「近代日本における農村社会の変動と学校教育」(『ヒストリア』一三三号、 一九九一、所収)参照。 28 本稿における記述はあまりにもスタティックでかつ決定論でもある。しかし、主体化 され尽くされることのない剰余こそが主体化を推進させることもまた確かだろう。「地方少年」は派生的でありながら、あるいはだからこそ、遊学少年以上に、国民国家形成の「中心」に位置していたのではないだろうか(注6参照)。 (付記)『少年園』の引用は復刻版(不二出版、一九八八)に拠り、ルビは省略し適宜 新字に改めている。なお、本稿の不備を指摘していただいた本会編集部の方々に、この場をかりて、お礼申し上げます。 (神戸大学大学院教育学研究科修士課程修了 めぐろ つよし) (日本文学協会『日本文学』1998年12月号掲載) |