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読みながら、涙が止まらなかった。自殺してしまった弟フリーダーの苦しさ、弟を失った主人公トーマスや家族の悲しみ、悔しさが、たまらなかったのだ。フリーダーの死があまりに重すぎて、はじめはフリーダーの死とトーマスの障害とがぴったりつながらなかった。しかし、トーマスでなければこの作品は成り立たないのだ。 物語の構成は緻密である。まず、僕という一人称で語られている点、トーマスの気持ちが読者にストレートに伝わってくる。次に、劇でも見ているように、物語は短い場面の連続である。場面は筋の展開に応じて、現在だったり過去の思い出だったりする。最後は、緊張を高めていく場面の配列のうまさである。 十五歳のトーマスは頭はいいが足が不自由で、いつもそのことが頭から離れない。学校で、「足のこともあるから」好きな少女に声をかける勇気がない。先生に対して言葉もていねいである。「障害者は…人から不愉快に思われないようにと、気を使うのだ。」 トーマスのいらだちは、家族の不和によって増大する。父親がほとんど家に帰ってこないので子どもたちに対する母親の風当たりが強い。トーマスは五人兄弟で、十八歳の姉、十一歳のフリーダー、双子の妹がいる。トーマスは自分かってな父親をうらみ、小言ばかり言う母親とよく衝突する。母親は体面を気にして、トーマスがお客の目にふれると、この子は一年飛び級して「ものすごおーく頭がいいんですの」と、わざとらしい作り笑いで言う。母親がこっそり日記を読んだときなど、トーマスは雨の中をタクシーで家をとびだす。歩けたら家を出てしまいたいと思うトーマスが心を許せるのは、姉と近くに住むひいおじいさんだけである。 トーマスと家族の不和の紹介の後、日曜日の森での散歩のエピソードで、物語にフリーダーがさりげなく入ってきて、次第にフリーダーの比重が重くなる。父親の女性問題の発覚も、フリーダーが父親が女性にキスをしていたのを見たことからだ。花の好きなおとなしいフリーダーは、成績で追い詰められていく。落第点をとってきたフリーダーを、母親はたたいて、「こんな知恵おくれの息子をどうしていいかわからない!」とどなる。フリーダーが落第を心配しているのは「ママが怒る」からだ。フリーダーは「時々、もう目がさめなければいいと思う」とも言う。トーマスはフリーダーの勉強を見てやるが、間に合わない。落第が決まった日、フリーダーは家に帰ってこなかった。 トーマスはフリーダーの死で、ママのせい、パパのせいと、家族皆を許すことができない。そんなトーマスの目を覚ますのは、フリーダーの死を機会にトーマスが勉強をみはじめた、落第生のスージーである。スージーは、トーマスが自分の足のことばかり気にしていたから、フリーダーの苦しみに気づかなかった、それがわかっているから母親を憎んで自分の責任のがれにしているのだと言う。クリスマスの朝、フリーダーの墓に、「この子のプレゼントには自転車…」と言う母親に、トーマスのわだかまりは半年ぶりに消える。 誰もが気づかずに傷つけ死に追いやってしまったフリーダーの死を乗り越えるには、相手を責めるのではなく家族が相手を思いやる気持ちを持つことである。この意味で、自分の非を認めて母親と心を通わすトーマスの成長は、フリーダーの死の重さに見合ったものといえる。表題の「だれが石を投げたのか?」は、昔の石打ちの刑に関連している。石を投げたのは皆で、誰の石が当ったのかはわからないのだ。 著者のミリアム・プレスラーは、ドイツの児童文学作家で、思春期の子どもの気持ちを鋭くとらえて衝撃的な作品を書いている。拒食症の少女を扱った『ビターチョコレート』と家でも学校でもびくびくして暮らす少年が最後は殺人を犯してしまう『夜の少年』の二冊が、我が国で紹介されている。(森恵子)
図書新聞1993年6月26日
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