でんでんむしの競馬

安藤美紀夫・作
福田庄助・絵 偕成社 1972年8月

           
         
         
         
         
         
         
     
 He is best known for stories that praise ordinaly people's ability to live a happy life in a world of cold reality.――W・サローヤンを紹介したこの文は、短編連作集『でんでんむしの競馬』を書いたときの安藤美紀夫にも当てはまる。
作者は「はしがき」に、こう記している。
《日あたりのわるい露地にも、子どもはいます。/露地の子どもも、夢をみます。/夢をみながら、一番星へいく貨物列車にのりこみます。/ただで、いちじくをたべるために、なげなわのけいこもします。/大名屋敷にねる子もいます。/でも、いつも………。》
 最初の五行は、生きるに決して甘くない環境にも厳然と存在する子どもたちが、その現実からの脱出を夢みたり、その現実を超克しようとしたり、その現実の範囲内で自適したりしている状況を、自らまとめたものである。戦時下の貧しい路地裏は「a world of cold reality」そのものであり、そこで生活している子どもたちは、確かに「ability to live a happy life」を持っていた。
 問題は最後の一行。「………」と略した部分である。作者は、ここで何を言いたかったのであろうか。

 試しに、第一話「手品師の庭」から点検してみよう。ハゲとチョコは「広くて、日あたりがよく、小さな池もあって、花だんには、チューリップやパンジーが咲いて(略)影の世界の露地から見ると、そこはまるで外国のよう」だった庭に、偶然入ることができる。だが、褒美のお菓子につられて「東京弁の若い手品師」の“空き巣”の手伝いをさせられるはめになり、最後は、二人とも「夕食ぬきで家からほうりだされ」る。
 第二話「星へいった汽車」では、貧しさゆえになかなか夕食にありつけないでいたデベソとキンの二人が、一番星を話題にしているうち、偶然停車した貨物列車に乗り込んで、露地から遠く隔たった“星の町”に降り立つ。ところが「戦争で右腕を失った男」にだまされ、無銭飲食の隠れ蓑にされてしまう。泣くデベソに、警官は「こんな朝鮮のいいなりになっとったら、しまいに、えらいめにあうでえ。」と言う。全く同じ境遇にいたはずのデベソとキンの運命の差が、この一言で強烈にあぶり出される。
 第三話「でんでんむしの競馬」。大人なら誰でも生理的に嫌がる毒キノコ――湿った畳から生え出した白いキノコを、チョコは自慢げにみんなに見せる。だが、母親は、「あほか! ほんまに。こんなもん、人に見せるもんとちがうんや」とへし折って雨の中へ投げ出す。一方、ハゲもずるい上級生の“でんでんむしの競馬”に誘われ、ビー玉を全部巻き上げられて泣くはめになる。
 第四話「いちじく」のガキとタマエは、もっと直接的に食欲を満たすことに挑戦し、みごとそれを果たすが、いちじくの汁で唇を腫れ上がらせてしまう。

 八編ある作品をこうして点検していくと、「はしがき」の省略部分は、いわゆる「うれしがらせて泣かせて消えた」に違いないことがわかる。
 この基本構造を支えているのは、まず、食欲に基づく外界へのはたらきかけである。短編連作でこれほどまでに食欲を中核に据え続けたドラマが他にあるだろうか。しかも、それはいじましいというよりおおらかで根源的ななつかしさに満ちている。かかる食欲を満たされたことのない露地の子が、想像力の赴くまま、食欲と無関係の、あるいはそれと裏腹の美的な世界や投機的な世界に憧れ、投入するうち、一瞬、食欲を満たされそうになる。そして、痛烈なしっぺ返しに遭う。
 二つ目は、異年齢の二人による行動である。異年齢の、あるいは異性の二人が、行動を共にすることによって、共通の心情を増幅させてゆく。自らをワナに陥れてしまう結果にもなる。
 三つめは、もちろん、しっぺ返しである。しかし、「若い手品師」にも「右腕を失った男」にも憎めないところがある。「うれしがらせて泣かせて消える相手」を、100%悪者にしていない描き方に、人生の理不尽さを決して単純なものと見ない作者の、深く柔らかいまなざしが感じられる。

 こうした基本的な構造から外れた場合、作品は単なるペーソスという範疇を超えてすごみを帯びてくる。
 例えば、第七話の「露地うらの虹」。満開の桜の下、天皇の写真を飾る奉安殿の芝生に平気で“しょんべん”をする十二歳のおウメは、今にいう知恵遅れの少女である。その少女の孤独が、一見やさしげな女先生のこわさを見抜かせる。「学校と警察という恐ろしいもののある露地の外」へさえ出させ、雨もいとわず、ただ一人、兵隊を守るための“千人針”を集めてまわらせ、急性肺炎を起こさせ、死なせる。大人の無理解という壁どころか、巨大な思想の壁、時代の壁に挑むおウメに、食欲は関係ない。
 全ての人物をそれまで渾名だけで登場させてきた作者も、誰より激しいしっぺ返しを受けるこのけなげな少女にだけは、固有名詞「モリモトウメコ」を与えた。それは、最後、露地の上に「冬の虹」を架けてみせたと同様、酷薄な時代、社会の片隅に存在し、行動し、犠牲となった、無辜の少女に対する、作者痛恨の餞けであった。
 
 作者は、某座談会(73年)で「環境に積極的に働きかけて何らかの形で変えていく姿勢をもつ、そういう子どもがやはり主人公としてはふさわしい。」と述べている。昔も今も、子どもたちが持つ武器は楽天性と一途さだけであって、環境に働きかけた子どもたちが受けとる代償は、想像以上に厳しい。その真実の姿を、作者は、敢えて淡々と描いて見せたのであった。
 京都の下町「路地裏」で展開されたささやかなドラマを「昔そういうこともあった」と、単なる「説話」のように解釈鑑賞するのだけは、よしにしたいものである。(皿海達哉
児童文学の魅力 日本編(ぶんけい 1998)
テキストファイル化富田真珠子