手紙でしか言えなかった
レターカウンセリングの子どもたち

八巻香織

新水社 1998


           
         
         
         
         
         
         
    
 これはフィクションではありません。手紙によるカウンセリングを行っている「ティーンズポスト」(0427-20-0221)の代表・八巻香織のエッセイ。
「はじめて手紙を送る相談者はどんな心持ちで投函するのだろう。受け取る人がどういう人なのか、まったく分からないところへ自分の内面を書いて送るということは、とても勇気のいることだと思う。」
と書かれているように、このカウンセリングは手紙をやりとりするという、まだあまり知られていない方法と使っている。
 手紙を書く行為は、読み手を想定する事で物事を整理することができる効能があります。対面や電話によるカウンセリングと比べてライブ感はないのですが、その代わり自らが自らと向かい合うきっかけを作り易いのです。
 そうしたレターカウンセリングの現場で八巻が考えたことが、この書物に綴られています。

 ナズナは、地元の小学校、中学校、高校に通っていたが、そこではいつも毎日陰湿ないじめが待っていた。学校では、「子どもの自立を育む」という方針のもとに、〈迷惑かけないよう、自分のことは自分ですべてこなし、いつもがんばる〉という自立の概念が支配していた。
 これは、学校だけじゃないところにも根強くあるインチキな自立の考え方だと思う。仮に、自立を「迷惑かけずに、自分のことは全て自分でできること、いつもがんばること」としてみよう。そういう世界があるとするなら、人はみな孤立してしまうのではないだろうか。
 こういうインチキな自立を子どもに強いるところでは、当然子どもは息苦しい。たぶん、大人だって息苦しいはずだ。そういう素振りは見せないかもしれないけれどね。
 大人が子どもを自立させようとするほどには、子どもはインチキな自立など苦しそうだからしたくないと思うだろう。それじゃあ、仕方ないと、今度は競争させたり、脅かしたりする。子どもが求める前に情報やモノを与える。そして、子ども本来の自分で立つ力をはぎ取ってしまう。大人は自立できない子どもを嘆く。実際、ナズナの通っている学校ではいじめが絶えなかった。息苦しい人たちが自分を認められないところでは、傷つけ合う行為やもたれあう行為によってしか、自分を守ることができないのだ。15


 他者のいのちをコントロールすることはできないのだ。相談者のかわりに問題を解決をすることはできない。相談者のこころの苦しみを感じ取ることはできても、それを泥棒することはできない。自分の不安を相手にたれ流したとしても自分は救えない。その姿勢を貫くために自分のこころをケアすることが、唯一私にできることなのだろうと思う。無条件で受けとめても、無責任は認めないために、私は私自身にできることをしよう。しかし、ある時、思ったのだ。きっと、相談者はそういう姿勢の貫き方を知るために手紙を送ってくるのではないかと。今まで、だれよりも、そういう姿勢で関わる相手をもとめてきたのではないかと。179

 熱い本だ。(ひこ・田中
メールマガジン1998/06/25