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去年と今年と、大学で「アメリカ黒人音楽の流れ」という講義を持っていて、その第一回目の課題が「切ない曲」。学生がどんなレポートを書いてくるか楽しみに待っているところ。ぼくはといえば、この数年に聴いたなかでいちばん印象に残る切ない曲は、岩井俊二監督の映画「UNDO」の主題曲だった。そしてここ数ヵ月に読んだなかでいちばん切ない本が、これだった。 『天使の声が聞こえる」というずいぶんセンチメンタルなタイトルだが、この「天使」というのは、じつは精神科病棟の残酷な看護夫たちのこと。そもそもこの本は、精神的なバランスを失った青年の物語で、第一章はその精神科病棟での生活で、第二章はそこを出て、カナダのツンドラ地帯を放浪した日々の記録で、第三章は結婚してまもなく妻を失ったときの追想という構成になっている。つまり心のバランスを失ってから精神科病棟で苦しみ、そこを出て大自然のなかで癒されるが、最愛の女性を失ってしまう青年の記録とでもいえばいいのかもしれない。 そして最後は、木のうろに作られた蜂の巣の描写で終わる。生きることに専念しているハチたちの描写だ。 「働きバチが割れめのふちに、死んだハチや疲れたハチ、まだ生きているけれど羽がすり減ってしまったハチまでも、運びだしてくる。彼らは、その体を外に押しだす。死んだか死ぬまぎわのハチたちは、そこから転げ落ちるか、枝にひっかかる。ハチは羽がどれだけすり減っているかによって、ぼくの腰掛けている枝のまんまえに積み重なるか、それともゆっくりと、ひらひら舞い落ちる木の葉のように、そっと地面に落ちていく」 死んでいった妻のことを思いながら、このハチのつむぎだす「生と死」の物語に見入っている青年の切なさを考えて、ぼくはふっとめまいを覚えた。そしてふと、中学生か高校生の頃にこの本を読んだら、どんなふうに感じただろうかと思った。 おそらく、「切なさ」に最も敏感な時代は、二十歳を過ぎた自分など想像もできない頃なのだと思う。そしてその頃、ぼくにとっては、強烈な「切なさ」こそが、思い切り背伸びして 「生きている」ことの証左であったような記憶がある。 ぼくは当時、キャノンボール・アダレイとマイルス・デイヴィスの「枯葉」を聴いていたけれど、最近の若者はCOCCOの「RAINING」に聴き入っているのかもしれない。 「詞がいいよね」とかいいながら。(金原瑞人)
ぱろる9号 1998/09/03
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